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どんな世界を望む?の話。

私はポンコツで、以前にも記事で書いているように人付き合いが大の苦手です。

というか、仕事上、避けられないのであれば人と会話したり何だりというのはやるんですけど、内心はそういうのすごく嫌です。できることならやりたくない。避けたい。人と人との間に立って何か折衝するのも大の苦手。

ただ、そうは言っても、働いているとそういう機会は結構あるんですよね。調整ごととか会議とかそういうの。

そういう時に、不完全燃焼ながらも何とか打ち合わせを終えると、ドッと疲れます。で、毎回思うんですよね。「ああ、もっと上手く立ち回れたらなぁ」と。砂を噛むと言いますか、背中にじっとりと汗をかいて、何とも後味の悪い思いをしながらそう思うわけです。

でも、ある時ふと思いました。

「もっと上手く立ち回れたら…何なんだろう」

もっと上手く立ち回れたら?
誰の意見も取りこぼすことなく汲み取って、それでいて簡潔に溌剌と自分の意見も述べて、それを他の出席者に納得させるくらいのプレゼンテーション能力があったのなら?

どうしたいのだろう、と。

そりゃ、こんな後味の悪い思いはしなくて済むかもしれないです。でも、だから何なんだ。実はそれくらいなんじゃないの。あとはカッコよく演説キメたいというような自己満足だけなんじゃねえの。と、そんなふうに思いました。

非効率なことは、効率的に。
無駄なものは、省き。
劣っている能力は、伸ばし。
出来ないことは、出来るように。

そうやって何でもかんでも、ポンコツでダサい面を潰して潰して、そうやって綺麗で整理されたシンプルな美しい世界を目指そうとしている。そんな気がします。

もちろん、それは生産性という点では非常に大事な問題解決アプローチだとは思います。

それはそれとして、その一方で、個人の能力を見て「お前はこういうところがダメだから、もっとこうやって強化しなさいよ」と叩き直していくと、何だか、完全なる仕事遂行マシーンみたいなのが出来上がってくるような。そんな気もしているのです。

それがその人個人の実感として気持ち良いならいいですよ。会社にとってもそういうカンペキな業務ロボットみたいなものが増えることで売上も利益も上がってそれで良いというならいいです。

しかし何となく、私はそうは思えないなと思ってしまいました。

苦手があってもよくて。それは何か物事を進める上で障壁になりうるほどであれば問題かもしれないけれど、それでもきっと世の中にはそれが得意な人も居るはずで。会社が、仕事が、チームで運営されるものだというなら、得意な人がそれをやれば良いように思うんです。

その人個人として苦手な部分があるとしても、もしかしたらそれはその人の大切な個性で、もしかしたらそれは潰すには惜しいような特性を秘めていることもあるんじゃないかなんて思ったりもするんです。

無理矢理直すことでたしかにお仕事マシーンとしてのレベルは上がると思いますけど、苦手であってもそれで別に実害が無いなら、ファジーな表現になっちゃいますけどそれで味があるなら、何だか無理に矯正する必要もないように思うんですよね。

ちょっと脱線しますけど。

我が家には小学生の子供たちが居ますけど、日々やっぱり「何でこんなことするんだ」「ちゃんとしなきゃダメだろ」「もっとこうでなきゃいけないぞ」と思うことばかりなんですよね。実際、幾度となくそうやって叱っちゃいます。

しかしよくよく考えると、教育という意味では親として何か指南すべきことや庇護すべきことは当然あるんでしょうけど、もしかしたら私のこういう言動や考え方は、この子の個性を潰す可能性もあるんじゃないかなと。

私自身、もういい大人なはずなのに苦手なことばかりだし嫌なことは避けたいと思っているし、もちろん一生懸命に働いているつもりだけれど隙があればサボりたいし休みたいし、実際無理せずお休みを貰うこともあるわけで。

それって全然パーフェクトな人間じゃないわけですよ。

それなのに、自分はカンペキじゃないくせに、子供に対して「こうあるべき」といったような価値観の物差しを押し付けることで、一体自分は彼をどんなカンペキなマシンに育てたいのだろうとも思って、ちょっとゾッとしました。

苦手なことがそのまま個性になるとかそんなことを考えているわけではないですけど、もう少し寛容になりたいと思ったのです。自分だけでなく、他人にも。

子供なんて尚更、まだこれから星の数ほどの可能性を秘めた存在なわけですから、その可能性を次々と潰すようなことはしたくありません。

どんどん効率的に、生産的に、無理無駄なく、そうやって便利になってスマートになる社会は素晴らしいと思います。

ですけど、じゃあ私たち一人一人は?それに伴って、何でもかんでも合理的な業務ロボットになりたい?そうなった方が、世界として幸せなのかしら?

いつぞやの大規模の大量生産。

何だかその方式を人間にも適用させようとしている気がしたんです。何か具体的な政策によってそうさせられているというより、一人一人のごく個人的な頭の中でだけ、潜在的に。それもみんな表立って言わないけれど社会全体でそういうふうに考えて振る舞っているような気もしています。

別に退廃的であったり退化といった流れを望んでいるわけではないですよ。科学技術の進歩に異議を唱えたいとかでもないです。

ただ、社会と切り離した個人として、みんなおんなじように、均一化してきているように感じられたのです。意識していなくてもそういう流れと言いますか。本当は一人一人オーダーメイドのはずなのに、何だかみんな大量生産されて同じ機能になっているような。それって何だか息が詰まりそうじゃないですか?私だけかな。

だから少し立ち止まって、考えてみます。きっかけは苦手な仕事という、ごくごく些細なことかもしれないですけど。

どんな世界を望むか。その描くイメージの中に、自分を含めた人間の在り方みたいなのが含まれているかどうか、ちょっと気に留めておきたいなと思いました。まあ私はもうポンコツでいいやと開き直って、今日も定時で帰ることにします。ああ、我が子たちには、こんな大人にゃなってほしくないが、仕方ないですね。おしまい。

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