上司ガチャの話。
先日、以前勤めていた会社の元同僚と飲む機会がありました。
その時の話です。
私がその会社に勤めていたのは、もう10年も前。
その頃の先輩たち2人との飲みでした。
先輩のうち一人はすでにその会社を退職し、今は別の会社に勤めています。もう一人はまだその会社で働いています。年齢も、私の一つ二つ上の先輩も居れば、10以上離れている先輩もいます。
実際、私は彼らと同じ仕事(プロジェクト)をしていたわけではありませんが、それでも定期的に連絡を寄越してくれて、こうして盃を交わしています。
それぞれの近況報告もそうですが、もっぱらこういう飲みの席での話題は「人事」の話です。
懐かしい人たちの名前が話のタネに上がり、大いにとまではいかないまでも、それなりに盛り上がりました。
やはり「あの人は今・・」的な話が出来るのは、かつて同じ時代を過ごした同志と言いますか、戦友の間柄ならではというわけです。
まあ、もう退職済みの人間にとっては、昔の会社の「人事」ほど、面白がりつつどうでもよい話題は無い感じはしますよね。「へぇ、あの人がねえ…」と「だから何なん」って感情が両立する感じ。
ところで、私もすでにこの会社を辞めているのですが、そういう「かつて一緒に仕事をした人たちの『今』」を知るたびに、不思議な気持ちになることがあります。
それは、たとえば仮に「Aさん」という方が居てこの人は私の先輩だったり上司だったりした存在だったとして、在職中は私はこの人にお世話になったとします。私自身「Aさん」を信頼して大変心強い上司と言いますか、一緒に仕事をしていて「頼れる上司」だと考えていました。
ですが、こうしてかつての同僚の方から話を聞くうちに、少しここで「ん?」と思うようなエピソードがありました。
どうやら「Aさん」(以降は「A課長」と呼びます)は、私とは直接面識は無いけれど同じ社内の従業員として認知している「Bさん」と何処かのタイミングで一緒に仕事をしたことがあったようですと。
私からしてみれば、「Bさん」は社内では目立つポジションに居り、いつも花道を歩いていたような印象がありました。その「Bさん」を部下にしたのならば、「A課長」もさぞかし大きな仕事を成し遂げられるのだろうと、私は勝手に想像しました。
しかし、聞くところによると「A課長」は部下である「Bさん」のことを快く思っておらず、あろうことか「Bさん」ではなくその彼の同期入社であった「Cさん」のほうを評価していたと。
「Cさん」もかつては「A課長」の部下だったものですから、もちろん「Cさん」の仕事ぶりを知っているはずです。ですが、華々しい実績があったはずの「Bさん」のことは全く評価せず、それどころか「A課長」は、「Bさん」に対して悪態をついて冷たく厳しく当たったと言います。
そして最終的には「Bさん」は退職。彼がメンタルを病んでしまったかどうかは定かではありませんが、現在は別の会社で生き生きと働いているそうですので、「A課長」の下で仕事をするのがよほど合わなかったのだろうと思われます。
このことから私が思ったのは、本当に「A課長」がそんなことをしたのか、ということでした。
私が在職中の「A課長」のイメージは頼れる兄貴で、仕事中もそれ以外の時間でもとても楽しい存在でした。理想の上司というと言いすぎかもしれませんが、部下としてついていきたくなる上司でありました。
その彼が好き嫌いで、ましてや直属の部下を処遇を決めていたというのを耳にしたとき、これぞまさに「上司ガチャ」なのかもしれないと思いました。
「上司ガチャ」という言葉が一般的かどうか知りませんが、ざっと意味を定義するなら「配属された職場で、自分の上司として就任した人が『良い人(もしくは好きな人)』か『良くない人(嫌な人)』かは、まるでガチャガチャを回すように運次第だ」とでも言いましょうか。
これによれば「Bさん」にとっては「A課長」は「上司ガチャに外れた」ケースであるように見えました。他方で、私にとっては「A課長」は「上司ガチャに当たった」というケースに思えます。
ガチャガチャを回すように、というのは言い得て妙で、
という2点で共通しています。
そう考えると、どんなことであっても、人生の各種イベントというのはある意味この「ガチャ」要素に溢れているものだと感じました。
入学した学校とか、入社した会社、結婚した相手(そしてその親類関係)、生まれた子供の入園した保育園とその同級生の親御さん、購入した家のご近所さん。
もうあらゆることが「運」にまみれているわけです。
ただ、そういう中でも、じゃあ異動先の部署の上司がパワハラ野郎だったとか、子供の通う学校の担任の先生がどうしようもなくネグレクト人間だったとしても、その「運」はそこまでとして、それ以降をどうするか自分で行動していかなければならないのだろうなとも思いました。
これはもちろん、「不運だ」「不幸だ」という境遇に陥っている人に対して「お前の頑張りが足りないせいだ」とか「状況を好転できないお前が悪い」なんてことを言うつもりはサラサラ無くて。
以下上司ガチャの定義のうちの後者、
つまり、「喜ぶ人も喜ばない人も居る」これに着目したらよいのではないかと、何となく思うわけです。
人と人との相性はあることは前提にあるとして、当然「アイツとは合わない」とかそういう感情を持つことはあるだろうと思います。
ですが、そのことで、たとえば仕事上の目標を達成することで何か支障があるのかと考えることは大切なように思います。
「嫌いで嫌いでしょうがないから、そのせいで仕事ができない」というのならもうしょうがないです。しょうがないですけど、「マトモな大人」ならば、基本的には一旦そういう「感情」抜きにしたうえで仕事は進められていけるものだと個人的には思います。
いや感情も大事ですしパフォーマンス如何はあるでしょうけど、変な話、それとは別に仕事はきちんとやるべきでしょっていうふうに思っていまして・・。
ですから、こんなこと言ってしまうとアレですけど、スキキライによって部下を評価しない(=一緒に仕事をしたくない)ってのは、失礼を承知で言わせてもらえば「上に立つ立場としてちょっと幼稚だなぁ」なんて思うわけです。
ガチャは、そりゃ運なのかもしれないですけど、そのカプセル(環境)を喜ぶのも喜ばないのも自分次第で。言ってしまえばそのカプセルが嫌だったら(「こんなガキのような上司はハズレだな」って思うなら)耐え続ける必要は無いし、もう一回ガチャ回すか別のマシンのガチャを回したって良いんじゃないのか、って。
私はたまたま「A課長」というガチャには当たったけれど、違う上司のガチャには外れて。それでメンタルやられて会社を辞めた経験もあります。その上司を「D課長」とするなら、恐らくその「D課長」というガチャを引いて当たりだと思った人も居るのでしょう。
やっぱり、運だと思います。相性もあるけど。
繰り返すと、それでも「どんな人でも仲良くしなきゃいけない」とか「我慢しなきゃいけない」とか、ましてや「それが出来ないのは、お前の非だ」ってのも、やっぱり違うと思います。
トコトン合わない人間でも仕事は進めることはできるはずだけれど、それすら拒む人ならその人の器が小さかったということでこちらから離れてもいいし、命を削ってまでその環境に耐える必要は無いと思うわけです。たまたまその場所に巡り合っただけで。
だから、それぞれが輝く場所は、きっとあるはず。キレイゴトのような言い方になってしまいますけど。
結論。
引いたガチャを喜ぶも捨てるも、自分。せっかく引いたならトコトン遊んであげればいい。でも要らないならさっさと捨てちゃってもいい。
そんな上から目線で居ても良いかなと思います。(そういう態度を本人に対してとるかは別として)
それにしても、働くって色々ありますね。働くことは生きることかもしれないですけど、その逆ではない。たかがガチャに振り回されて苦しむなんて、バカバカしいですから、と。そんなふうに思いましたとさ。おしまい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?