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「未来」に自分を引き渡す

子どもは可能性の塊だ。子どもには未来がある。子どもには夢がある。

そうだよ。これからまだ知らないことをどんどん経験していく。そうだけれど、それを大人がそんなに期待していいんだろうか。

確かに、「良い未来」を「得る」ためには、大人が手を引いてやらないといけないことばっかりだ。

私の地元には、中学受験なんて概念はなかった。学年のほんの数人が受けていて、なんだか噂程度に聞くものだった。

だけれど、東京に来てからは、なんと選択肢の多いことか。中学受験をさせるのか、させないのか。受けるとしたらどこを。公立に進むと言ったって、どこに住むかで通わせる公立学校が変わってくる。公立学校に差があるなんて、考えたこともなかった。

そうやって大人が子供に「良い未来」を与えていく。

与えられた子どもはどうだろうか。もちろん、与えられる子どもは「恵まれた」子どもだ。経済的に? 親の文化レベル的に? でも「与えられている」間にも、子ども、その人間ひとりの時間は刻一刻と過ぎ去っていく。

25歳になっても、「未来」が続くのを私は知っている。「良い未来」を追いかけて、あと何回耐えればいい?

中学や高校を選ぶときは、どんな大学に行けるかを考える。とりわけ、進学校は。でも、ゴールにしていた大学だって「良い未来」をつかむためのまた入り口に、なってしまっている。「良い大学」に行くと「良い会社」に行けるし、社会は大学に「良い社会人の育成」を期待している(わかんない、全部の学校じゃないと思う、でも、教育学部はその気が強かった)。

ずっと「未来」を追いかけさせられる。だから私はちょっとだけ道を逸れてみたんだ。今まではなんだか私は仕事で身を立てなきゃいけないんだと勘違いしていて、仕事で絶対に結果を出したいと思っていた。でも、それが明らかな「幸せ」では、ないと分かってから、あるいは、自分にその形の「幸せ」を得ることはできないと実感してから、たった一つの価値観に過ぎないと、ようやく分かった。

仕事はアルバイトを2つ。夕方から夜の時間を引き渡して、お金をもらう。給料は十分ではないから、パートナーが助けてくれるのでようやく生きている。ときおり、みじめに思う。人と同じように働けないこと。お金が十分でないこと。

でも、幸せに「なる」という、未来をずっと追いかける競争から降りて、幸せで「ある」という決断をしてからは、未来のために「耐える」ことはなくなった。

でも、未来のために「耐える」時間があったからこそ、今の生活があったとしたら。その価値観を完全に否定することはできない。

私は未来にどれだけ自分を引き渡したらよい。子どもには、どれだけ未来に期待させて、今のその人間自身を未来に預けて、耐えさせてよいのだろうか。

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