「かもしれない」から逃げられない

疲れがたまっている気がする。電車の中での居眠りのレベルが、うとうとから気絶に変わった。気絶するように寝ると、口を開けて眠ってしまうので恥ずかしい。この間はそのせいで降りる駅を逃し、仕事に遅刻した。遅刻が増えるということは、その人を叱っても改善できない。たいてい、疲れているとか、睡眠が足りないとか、その人自身がダメージを追っている場合が多い。心配してあげてほしい。私のこと。

ちょっとした叱責に対して、すごく嫌な気持ちになってしまった。大したことじゃないのに、悔しくて涙が出る。私にも言い分はあったが、大したことではないからこそ言う必要がなかった。飲み込んだ小さな言葉が針になって、弱った体を突きまわした。

本当は言いたいことがあるのに言わないと、涙が出てきてしまう。どんな些細なことでも、実は自分を傷つけてしまう。でも、そんな小さなことで、言い訳がましいことを言いたくない。関係を悪くしたくない。

でも、きっと言わないと私は満足しない。言葉を海に沈めて沈めて、いっぱいになった海があふれて、泣いている。ほかの人は飲み込める言葉かもしれないが、あいにく私の海はもういっぱい。悪いけど、言わせてもらおう。今度からは。

嫌なことが起きるのではないかという不安から逃れられない。「かもしれない」という可能性からは、「絶対に起こる」という確定事項よりも、ずっと回避することができない。

健康診断の採血が不安だとしても、採血は絶対に起こる。一つの方法として、採血をしないことがあるが。よほどの理由がない限りしたほうがよいだろう。採血の間ほかのことを考えるとか、何か不安を和らげる手段を持っていくことで、今の不安は減らすことができる。

「嫌なことが起きるのではないか」という不安は、すべてを脅かす。怒られるのが嫌だとしても、怒られるのを回避することはできない。他人の怒りは自分でコントロールできない。だから、ミスをしなければよいというのは少し違っていて、何をミスと判断するかは相手の裁量だからだ。

しかし、絶対に怒られるわけではない。嫌なことひとつ起きずに一日を終えたことだってあるし、そういう日がほとんどだ。でも、そうならないように努力したわけではないし、嫌なことを避けたわけではない。

そう考えると、私は他人に自分の気持ちを振り回されやすいのだと思う。自分の手の及ばないところで発生した他人の怒りを、自分のせいだと思ってしまう。そんなわけないのに。

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