本は字のかたまり
本は字のかたまりである。逆に言えば、字をたくさん書けば、それは本になる。
岸政彦『東京の生活史』を書店で見て、「なんて、字のかたまりなんだ」とくらくらした。これを読むことよりも、書き手のことが気になった。『断片的なものの社会学』を読んでいるから、インタビューや文字起こしの要素が強いとはいえ、人はこんなに文字を書けるのか。さすがに、一人の手には依らないとはいえ。
本は、文字のかたまりである。そんなことを、私が一番良く分かっている。
大学のとき、自主ゼミで雑誌を作っていた。残念ながら出版までは行かなかったが、大学内にプリンターで印刷したものを置かせてもらった。デジタルでは今も読むことができる。
そのときの雑誌は、色々なことをテーマにして、取材やインタビュー、イベントを開催してそのレポート、もちろん大学だったから、アカデミックなことにも触れながら書いて、編集して。
一人じゃなかった。小規模なゼミではあったが、常に7人くらいはいて、あれこれと言いながら「雑誌」という形には拘って活動していた。
当時の活動が充実していたのは言うまでもないが、「本ができる」ということが嬉しかった。
そのときの手応えは、今でも「私はいつでもやろうと思えば本が作れるのだ」という自信につながっている。
私は本を作りたい。いつからか人生の目標になっていた。
今は本なんか作らなくたって、こうしてnoteやTwitter(X)を使って発信ができるし、その方が伝わる速度はずっとずっと速い。
それでも本を作りたい。ものを作りたい。ひとつ、喫緊の課題としては私が好きだったTwitterはなくなりつつある。広告にあふれて、まともなリプライは飛んでこない。百歩譲って(いやだけど)生の人間から来た悪口リプライの方がましだ。どれもスパムを踏ませようとする自動アカウントばかり。noteはまだ大丈夫かと思っていたけれど、先日もAIで生成した見出し画像の並ぶ、スパム誘導アカウントからコメントが来ていた。
もはや雑音なしに会話できるSNSは存在しない。それに、いつサービスが終わるかも分からない。だから、本を作りたい。
それから、何が言いたいのかよくわからないと言われる。私が私の話をするには、時間がかかる。それは自分自身がよくわかっている。迷惑なのもわかっている。
でも、今までの人生で、どれだけの言葉を、自分の中の海に沈めてきたのだろうと思う。私にとってはどれだって、どうでもいい言葉はなかった。私の、私の話を、時間をかけて全て話すことができたなら、それはどんなに素晴らしいだろうか。
そのために、今は文字をたくさん書くことにしている。幸い、野球選手と違って、物書きは、物を書いていればなることができる。物を書いている間、私は物書きだ。
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