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【よみがえる変態】を読んで私が取り戻したもの。

 何だかとてつもなく衝撃的な体験だったように思う。この胸中に渦巻く感情を正直、きちんと言語化出来ているとは思わない。思えない。それでも自分の中に変化があったことは確かで、それを記録として残しておきたいと思い筆をとりました。

 ようやくコロナ禍の終わりが見えてきた。まだ終わりではないにしろ、収束の未来が少しずつ現実のものになってきたと思う。この二年ほどは、本当に長くて、重くて、苦しくて、現実なのに現実じゃないようなふわふわとした心許なさが常に付き纏っていたように思う。私は医療従事者の端くれだったけど、病院勤務という訳ではなかったから、それほど激しい締め付けはなかった。それでも制限に次ぐ制限。諦めないといけないことも、我慢しなければならないことも正直沢山あった。終わりのない閉塞感、だけど仕事に忙殺され追われる日々。そんな私の心を癒したり追いつめたり、また癒してくれたのが数々の創作物たちだった。

 どこにも行けない私をここではないどこかに連れていってくれる存在は、やはり救いだった。だってそこにしか逃げ道がなかったから。

コロナ禍がやってくる少し前、私は仕事場の人間関係でメンタルをやられた。病院で受診して正式に診断名がついた訳じゃないけど、診断書に『適応障害』と書かれて少しの間休職に追い込まれるくらいには病んでいた。休んで一応のところ表面上は回復して、私はまた元の職場に復帰した。休職したことがきっかけで部署移動を余儀なくされた。慣れない部署で新たなスタートを切るのは病んでいた私には多大なるストレスだったし、正直とても辛かった。

 私は移動前の部署が好きだったし、やり甲斐も感じていた。でも休職した理由がその部署にあると勝手に判断され、体よく追い払われてしまったのだ。元々その部署はいずれ撤退する予定の部署でもあったから、私の休職はよい口実にもなったのだろう。そして面倒な部署から移動出来たのだから喜べ!と遠回しに言われている状況もひどく理不尽で気持ち悪かった。

私はあの閉鎖的な病棟の空気も、ちょっと厄介な患者さん達も好きだった。終末期の手の施しようがない患者さんたちが少しでも穏やかに過ごせるようにと、手を尽くしながら同じ時間を共有するのが好きだった。同僚から見たら無駄な努力だったかもしれない。傍から見たらそれは自己犠牲の奉仕に見えたかもしれないし、不健全に見えたかもしれない。でも私は、それを生き甲斐だと思うくらいには好きだったのだ。

 結局、私がどう言葉を尽くしたところで、それらは認められなかったし、業績という結果を残せなかった私は評価されることも認められることもなかった。それでもそこにしがみつくくらいには私は私の仕事が好きだったし、コミュニケーション能力に難のある私には向いてない仕事だと心の底から思いながらも、『辞めたくない』『諦めたくない』と歯を食いしばりながら頑張った。何の為に頑張っているのか、誰に弱音を吐けばいいのか、誰を頼ればいいのか、分からないまま我武者羅に働き続けた。

 部署が変わって患者さんたちの質も、仕事内容も変わったけど、私の仕事に対するこだわりやスタンスは結局変わらなくて、同じ部署の同僚との溝は最後まで埋まらなかったし、むしろ私の厄介者、扱いづらい人という立ち位置はどんどん固定していった。

 疲弊した私は同僚とコミュニケートすることを避けるようになった。否定されるのも嫌だったし、言葉を尽くしても分かって貰えないのはここ数年の出来事で分かりすぎるくらいに分かっていたから、理解されないことに打ちのめされてもいた。コミュニケーションとは相互的なものの筈なのに、ずっと暖簾に腕押しで返ってくるものがない。壁にボールを投げるような毎日に私は疲れきっていて、毎日毎日『辞めたい』『楽になりたい』『今日は何事もなく平和な一日でありますように』と口ずさむような日々だった。
 
コミュニケーションをとることを辞めたら、今度は軽い人間、都合のいい人間として扱われるようになったな、と今になって思う。何を言っても言い返さない(言い返したらもっと面倒なことになることを知ってたから何も言えなかった)面倒事を押し付けてもいい人間。そんな扱いだった。忙しい合間をぬって雑務をこなしても、面倒事を力の限り処理しても、感謝されることはない。それをするのが当たり前の人間だとそう認定されていたから。ここにきて私はまだ『感謝されたいのか』『認めてほしかったのか』『期待していたのか』という自身の感情に気が付いて愕然とした。コミュニケートをやめた癖に自分はそれを相手に期待するのか、と。その自分の歪な醜い感情の不健全さを目の当たりにして、このままではいけない。とようやく思い至ることが出来た。

 ようやく辞める決意が出来た瞬間だった。

『辞める』と職場に伝えてからも一悶着あったし、それまでのツケが回ってきて体調を崩して入院したり、とそこを脱出するまでにも色々あった。

 次の職場は180度違う環境がいい、同じ熱量で働ける人がいるところがいい、と思い切って未知の世界に飛び込んだ。

結果的にそれは正解だったし、今の私は仕事を楽しいと思えている。束の間の自由や解放感に包まれていた。

そのすぐ後にコロナ禍の渦に飲まれていった。本当に人生は分からない。陳腐な表現だけど、良いことと悪いことは同時にやってくることもあるのだなぁ、ということを頭の片隅で思っていた。

それからは兎に角嵐のような日々だった。仕事は充実していて楽しかったし、同じ熱量で働く人たちとコミュニケーションする喜びも知れた。あの時あの場所から逃げ出す決断を出来て本当によかったと、心の底から思えた。でもやっぱり人間はそれだけでは駄目で足りないんだな、とも思った。

人生にとっては余分で、無くても困らなくて、でもその嗜好品や娯楽は生きるためにはやっぱり必要で、それを楽しめる環境や精神のゆとりが不可欠なんだなぁと思う日々だった。私はその隙間を埋めるために創作に没頭したり、受動的に楽しめるコンテンツを求めた。漫画やアニメやドラマ、映画といった物語は私にとって生きる為に必要なものなんだということを再確認しながら物語の世界に埋没していった。そうすることでメンタルのバランスを不健全ながらとっていたのだと思う。

 そんな中出会ったのがMIU404というドラマだった。私は根っからのオタクなので、漫画やアニメ、小説には簡単に転げ落ちるようにハマってしまう。コロナ禍の間にもそうやって落とされた作品が複数あった。だけどドラマや映画というコンテンツは目にするけれど、漫画やアニメや小説のように転げ落ちるようにどっぷりとハマることは、今まで経験がなかった。お正月にやっていた総集編の一部を見て『面白いな、これちゃんと腰を据えて見たらハマるだろうな』とそう思った。そういう時のオタクの勘は外れない。でもそういう風にして作品世界に落ちるのはエネルギーがとても沢山必要だ。だから私はその時は敢えてその作品には手を出さなかった。まだ時期じゃないと自分に言い聞かせて。

でもそういうのは結局長く保たない。私は特にこれというタイミングでもなく、その扉を開いて、瞬く間に落ちていった。予想通りすぎて自分でも笑ってしまうくらいに、どっぷりその世界にハマった。

作品内容についてはネタバレになってしまうので割愛するが、私はこの物語の主人公二人の関係性にすごくすごく惹かれたのだ。人間関係で打ちのめされて、人間性さえ否定された私が憧れて欲しかったものがそこにあって、それが私の感情を激しく揺さぶった。この物語に登場する二人のキャラクターは私と似ても似つかない。だけど二人が物語で葛藤する様や手放さなかったものにすごく共感したし、同時に自分には絶対に達成出来ないもの、掴めないものを二人は掴んでいる気がして嫉妬にも似た憧憬を強く感じた。

そこにその人がリアルに居るみたいな演技に震えたし、そもそもドラマを視聴中は演技だなんて思わなかった。どんな人生を送ればこんな人間性を獲得出来るのだろうか?と疑問さえ抱いた。辿ってきた道は全く違うけどその二人の年齢は私とそう変わらない。その二人の重厚な魂に衝撃を受けた。凄まじいエネルギーだと思う。

主人公である二人を演じた星野源さんと綾野剛さんを私はそんなに意識して見ることが今までなかった。よくドラマや映画に出てるなぁ、星野源さんに関しては歌も歌うのか、多彩な人だなぁくらいのイメージ。特に星野源さんは歌手でもあると知ってはいたけど、あまり認知はしていなくて『逃げ恥のあの歌やドラえもんの主題歌の人だよね』くらいの感覚だった。

ふと気になり、それ以外の歌も聴いてみた。耳馴染みのある知っている曲が沢山あって『あれ?この曲も星野源さんなんだ?』と不思議な心境になったし、改めて聞いた歌の数々に私はすごく衝撃を受けた。

明るくてポップで耳馴染みのよい、余韻がいつまでも残る曲調なのに、歌詞の世界観がすごく重たくて暗いのだ。

(これはあくまでも私の印象です)

明るさと仄暗さが表裏一体となっていて、アンバランスなのにずっと聞いていたくなるような、そんな満たされる沁みるような歌声。その物語のような世界観にどハマりして延々とリピートしている現在。

私はもっとその世界観に浸りたくなって、彼が書いたエッセイを手に取ることにした。私は活字いわゆる小説がとても好きだったんだけど、メンタルをやられてからは長い文章を集中して読むことがとても辛くなり、本を買っては積み上げる日々を送っていた。そして元々フィクションが好きなこともあり、エッセイは今までほとんど読むことがなかった。だからこんなに真剣に集中して読んだエッセイは覚えている限り、これが初めてだったと思う。

 星野源さん著の『よみがえる変態』は人生が変わってしまうくらいに衝撃的な読書体験で、私の視界は今もチカチカと点滅しているし、頭も胸も振動で揺さぶられている。吐き出さないと苦しいくらいに感情が湧き上がってくるので、必死にその思いを形にするべく、この文章を書き殴っている。

このエッセイは一体どういうジャンルに該当するんだろうか?と考えたけど言語化が難しかった。生きること、死ぬこと、創ること、性のこと、女のこと、男のこと、家族のこと、仕事のこと、全てが詰まっていて濃密だ。人生が凝縮されていると思う。人生そのものを創作と見做しているようなそんな印象も受けた。自分が感じた苦しみや痛みや生きにくさ、傷跡を言語化することで物語として消化して生きているのかなぁって、私は感じた。私は星野源さんの人生という血肉を今味わっているんだなって感じた。その感覚に癒しや赦しをもらった。辛かったことやしんどかったことや辞めたかったことや、生きづらいと感じたことを肯定されたような気がして、それにカタルシスを感じて、沸き上がる感情で涙が滲んだ。

 このエッセイの中で『実際本当に泣いたかどうかは覚えていないが、涙目になり、心の中で泣いたのだけは確かだ』という一節があり、私はこれに深く感銘を受けた。私はよく誇張して、感動体験を『号泣した』だとか、『めちゃくちゃ泣いた』だとか大袈裟に表現するのだが、実際には泣いている訳ではない。ただ胸の中で湧き上がる、暴れる、言い知れない感情に名前を付けられなくてそう表現しているに過ぎない。でもこの一節を読んだ瞬間に『嗚呼、私は心の中で泣いていたのか』とストンと胸に落ちて、視界が晴れたのだ。名前が付けられなかったものに名前が付いた瞬間だった。

 その他にも創作することを『ものづくり地獄』と表することにも唸った。分かる、すごく分かるぞ!と思ったからだ。楽しいけど辛いという感覚。しんどくても体に鞭打って創作しちゃう感覚。それが精神的な問題の解決法やストレス解消の手段であるという矛盾。一種の自傷行為であるという本末転倒感もすごくよく分かる。

この人は人生を物語とするべく創作という媒体を使っているのかな?とも思った。思ったというか、私自身がそうであるということに、星野源さんの文章で気付かされた。

 読みやすく簡潔な文章構成や言葉の選択。表現方法もさることながら、この人の人生の見つめ方や世界の解像度の高さに圧倒されてしまった。こんな風に主観的な文章で客観的に物事を表現できるものなんだ、と私はひどく衝撃を受けた。自分を第三者の視点で俯瞰しながら『物語』に落とし込んでこのエッセイを書いている。と私は感じたからだ。中でも印象的だったのが、パンケーキの話と宇宙人の話だ。この話はエッセイと知らない人が読めば、短編小説と思ってしまうような書き方をしている。私は彼のその世界の視え方や文章に落とし込む感受性に当てられてクラクラと眩暈を起こした。パンケーキは何気ない日常のワンシーンを切り取ったものだが、宇宙人は彼の失ってしまった家族の話だった。どちらも同じ温度、空気感で描かれていて、淡々としている。でも私は読みながらとても胸が締め付けられて、苦しくてしんどくて、切なさで涙が込み上げてきた。私は一体何を読まされているんだろう?って混乱さえした。

それは彼の闘病の記録でまた深く強くなる。

星野源さんが病に倒れて仕事をお休みしていた。精神的な不調を抱えていた時期がある。というのはメディアからの情報で何となく知ってはいた。その程度のことしか知らなかった。

エッセイの中で描かれているその記録は、壮絶で生々しくて人間味が溢れていて凄まじい熱量が詰め込まれているのに、淡々としていて冷たかった。少なくとも私はそう感じた。生々しい傷口を傷跡に変換するために、物語として言語化しているんだな、っていうこと。その過程を私は垣間見ているんだと、強く思った。

 ページをびっしりと埋め尽くす『痛い』という文字の羅列。そこから淡々と語られる病状の経過。『生きているから苦しいんだ』と確信していくくだりは兎に角生々しく、文字通り読んでいて痛かった。こんなに苦しいのならいっそ終わらせてしまいたい、と思いながらも体は生きようと叫んでいて、それをやり過ごすために思考する様や、苦しみの中に見える些細な日常の出来事を拾い上げて喜びに変換し、自らを掬いあげる手段にする様。当事者にしか分からない痛みや苦しみをこんな風に淡々と、第三者の視点で言語化出来るものなのか?と私は思ったし、それを目の当たりにしている事実に、鳥肌が立って震えが止まらなかった。

『痛みや苦しみの過程を言語化する』それは言うほど容易くない。ひどく辛くてしんどくて、投げ出してしまいたい、面倒な作業だと思う。私は冒頭の自分を振り返る文章を書く時でさえ吐きそうだったもの。この人は人生の全ての苦しみ、痛み、その中で見つけた希望や喜びを全部捨てずに取っておきたい人なんだな、と私は思った。全てを自分の血肉にするために、文章だったり、歌だったり、演技だったりに変換しているんだなぁと、思った。人生すべてが創作物で、私はその彼の血肉に共感して救われたり、そういう視点や考え方があるんだということに気付かされたり、そういう風に考えてもいいんだ、間違いじゃないんだ、と肯定されて赦されたりしてカタルシスを味わっているんだなと、改めて思った。

 余談ですがこのエッセイ、下ネタやエロについてや男女間の感じ方の違いについてなども赤裸々に語っています。私は最初、それにすごく面食らいました。だけどその考え方、捉え方はとても本質的で、私はそれに救われたなと読了後気付かされました。私はずっと心の奥の奥に、言葉に出来ない潔癖さを抱えていて、自分の屈折した性欲や性癖に嫌悪感があったんだけど、彼の性の捉え方や感じ方に触れて、それを受け入れること、肯定することへの罪悪感が解けてゆくのを感じました。

『うしろめたさなど微塵もない。人はエロいことをするから生まれてくる』

当たり前の事実をありのままに、軽快に言い切っているその姿に触れて、私は憑き物が落ちたように心が楽になるのを感じました。そういう意味でも、人生が変わったって思える出来事だった。

 偶然の積み重ねで、この本に巡り会えて読むことが出来てよかった。私は本を読んだ時に感じる充足感や自分の内面が変容していく過程が好きだったし、それをずっとずっと求めていた。それをまた思い出し、味わうことが出来て、取り戻すことが出来て、本当によかったです。

星野源さん本当にありがとうございました。

読書って幸せですね。

(了)


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