ソフトウェア・エンジニアへの道 (その2) - 入学編

さて、9・11、アメリカ同時多発テロ事件が起きて、完全に留学の出鼻をくじかれたわけなんですが、、勿論周りは心配して大反対でした。テロリスト達は学生ビザで入国していたという話で、今ビザ申請してもまず通らないだろう、と思い、じゃあまあとりあえず申請してみて、却下されたら諦めよう、と思いました。ところがどっこい、何の問題もなく、最長の5年の学生ビザが下りたのでした。。そして、結論から申しますと、結局留学を決行し、その年の11月の初めごろにはロサンゼルスへ旅立ったのでした。。

出発を含め、ロサンゼルスで始めた波乱万丈過ぎる学生生活は、それだけで一冊の本が書けそうなくらいです。。ああ辛かった。。(笑)。しかしこの記事の趣旨と多少ずれますので、その辺りはバッサリ割愛させて頂きます(^^;)

最初に住んでいたのはStudio Cityという街で、数か月でNorth Hollywoodという街に引っ越しました。そこからコリアタウンにある語学学校に通う毎日。それが半年くらいだったでしょうか。しかし、語学学校に行っていた事のある方はわかると思いますが、あれは長い間いる場所ではない、という事をそのうち悟るようになります。正直毎日英語の勉強ばかりでは飽きますし、世界も広がらない。あとは、コリアタウンともお別れしたかった(笑)。コリアンマーケットやレストランがあるのは凄く良かったんですが、まず家から遠かったのと、決して安全な地域でなく、街もすさんだ感じでで(少なくとも当時は)全く魅力がなかった。

そこで、もっと英語の力を磨くべく、コミュニティー・カレッジに行く事に決めました。近くのカレッジを何件か見学して、結局一番家から近かったLA Valley Collegeが大変気に入り、ほどなくして許可が下りました。カレッジに入る時に、英語と数学のプレイスメント・テストを受けて、どのレベルのクラスから取れるかが決まるのですが、英語は結構ボロボロでした(笑)。

というのも、半年語学学校にいたのですが、上達した事といえば、わからなくてもとりあえず話す、という「度胸」が付いたのみ。。英語力が上がったという実感は今一なかった。なのでカレッジで一体どこまで付いていけるのか不安で不安で、たしか最初のセメスターは、英語関係と、音楽の授業と、あとComputer Scienceの一番基礎クラス、という、英語が最低限でも何とかついていけそうなクラスばかり取りました(笑)。ただ、予定通り希望通り、カレッジに入ったらプログラムのクラスを取りたい、と思っていたので、それはとても楽しみでした。

カレッジではクラスをレジストして授業料を払ったら、キャンパス内の本屋さんで指定の教科書を買うのですが、私の初めてのコンピュータークラスの本を手に取って唖然、、ぶ厚過ぎでした。。10cm、とまではいかないかもしれませんが、そのくらいの厚さがありました。ちなみにC++の本です。後でわかった事ですが、1セメスターでその本を終わらせる訳じゃなかった。その教科書は結局、3セメスターか4セメスターかけて、違うクラスで終わらせるものでありました(1セメスターは大体4か月ちょっとです)。が、当時はそんな事も知らず、とにかく英語を読むのが遅かった自分は、もう焦って、必死にその教科書を予習をしました(@_@;)

一番最初のCS(Computer Science)の授業は今でも覚えてます。ブロンドの女性の先生だったので初めは意外でした。気難しくも優しそうにも見える方でございました。一番最初、教科書に行く前に、ささっとメモリーの話をしてくれました。因みにこのクラスはプログラミングを全くした事が無い人が取るクラスで、CSがメジャーでない人も多くいます。他のメジャーでも論理的思考を育てる為、プログラミングの基礎が必須になっていたりするので。そんな生徒らに向かって、突然メモリとアドレスの話をして、コードを書く作業から随分飛躍してるな、とその瞬間は思ったのですが、そのうち、なるほど、メモリとアドレスの意味が分かって初めて、変数が何たるかを理解できるのか!といつだったか、目からウロコが落ちた思いだったのを覚えてます。

詰まるところ自分は、沢山コードを書いてきた経験はあって、こうするとこうなる、という事象は分かっていても、なぜそうなのか、なぜそう書かなければいけなかったのか、という根本がわかっていなかった事に気が付いたわけであります。配列もはカッコの中に数字を入れれば増殖する、プロパティーは点(.)で区切る、メソッドにはカッコをつける、くらいの認識だったんじゃあないでしょうか、酷いものでした。全くもって初心者のクラスでしたが、今までやってきたことの仕組みがわかり、本当にすべてに納得がいきました。

C++を使ってましたが、先人らがよく、「オブジェクト指向でつまずいた、ポインタでつまずいた」などという噂をちょこちょこ聞いており、自分もそんなに難しいのかドキドキしましたが、ふたを開けると、え、な~んだ、こんな事。確かに奥は深いけど、つまずくほどのコンセプトではない事に、良い意味で肩透かしを食らい続けてました。むしろ面白い、興味深い、楽しい。ちなみに自分の英語力はボロボロで教科書の文章を一ページ読むのに四苦八苦していましたが、コードのサンプルはスラスラ読めました。自分は英語よりC++で喋ったほうがコミュニケーションが取れるのではないか、と感じたほどです(笑)

そんな中、最初のセメスターの終わりごろ、授業の最後に先生が連絡事項がある、と言って、「xxxがxxxというプログラムを手伝ってくれる生徒を募集している。教師からの推薦が要るので、希望者は名乗り出てください」と発表しました(xxxは聞き取れずw)。どうやらアルバイトな感じです。ときめきました。。まず、アメリカで留学生は基本バイト禁止です。でも例外があって、キャンパス内で働く仕事であれば、収入を得ても良い事になっています。でも校内での仕事は限られるし働くのは留学生だけではないですし、非常に狭き門です。なのでコネもない所にそんなチャンスはないだろう、と思っていたところに、まさかの募集があったのでした。第二に、コンピューターサイエンスのクラスで、"プログラム"を手伝う募集をしている、つまり何かプログラミングしてお金を稼げるのだ!と舞い上がりました。これが多大なる勘違いであった事に、後々気付くのですが。。

とにかく、授業が終わってすぐ先生の所に駆け寄り、応募してみたい、と伝えました。自分はその時までにその初級クラスでの優等生の評価を確立していたもので、先生は「うん、あなたならできると思うわ!」と言って、推薦状を書いてくれる事となりました。

因みにこのデビー・シュナイダー先生、最初は気難しそうにも見えたのが、全く持って優しい先生で、最後は大好きになりました。授業は淡々としていて、わかりにくい、と文句を言う生徒も多かったですが、自分としては全く問題なく、わからない時に質問するれば、授業中でもその後でも、わかるまで真剣に親切に答えてくれる先生でした。全く威圧的でもなく、感情的でもなく、言葉の壁があっても面倒くさそうな顔一つせず付き合ってくれる。まあ教師としては、自分のように、知りたい、教えて、わかった、嬉しい、ありがとう!という生徒は、教えがいのある生徒だったのだろうとも思います。

なので、当時ボロボロだった英語力にもかかわらず、推薦していただく事は何の問題もなかったわけですが、この仕事が自分のコミカレ生活の色を予想していたものとちょっと違うものに変えて行くこととなりました。。また続きます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?