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ソフトウェア・エンジニアへの道(その1)- 準備編

よく聞かれる質問で、どうやってエンジニアになったの?というものがあります。もしかしたら、日本なら情報処理系の学校や学部に行く、アメリカならコンピューター・サイエンスの学位を取る、といったような方法が王道なのかもしれません。が、自分はおそらくかなりの変化球組で、幸運に恵まれたせいもあると思うので、単に、こんな人もいる、という程度に読んでいただければ幸いです。エンジニアになる方法を伝授する記事ではなく、あくまで自伝的な記録です。あと自分の場合は、留学に関する事も避けられない要素なので、その辺も触れて行くと思います。

昔はソフトウェア・エンジニアという言葉は知らなかったのか、なかったのか、単にプログラマー、と言っていたと思います。遡る事遥か昔wになりますが、兄が工業系の高校に行っていて、学校からパソコンをしばらく借りいた時代があります。まだ5インチのフロッピーディスクを使っていたような時です。自分は小学校前でしたが、興味津々、完全にロックオンでした。兄は授業の為に使っていたようでしたが、たまにロードランナーとかやらせてもらって、テレビゲームに厳しくてファミコンとか買って貰えない家に育っていた自分には夢のような時間でした(笑)。

その後も幼心のまま、パソコンに関する憧れはありました。小学校の3年か4年か、そんなくらいで、親にパソコンを執拗におねだりし、ようやく買い与えられたのがMSX2というものでした。。ご存知の方はご存知とは思いますが、多分例えば、楽器やりたいと言ったら、ピアニカを与えられたようなものかもしれません(笑)。MSX2はどちらかというとファミコンのようなゲーム機に近いかと思われます。本体はキーボードと一体型で、モニターもPCモニターでなく、テレビにつなぐというもの。カセットを差し込んでゲームができるスロットが付いています。でもMSX2 Basicという言語でプログラムもでき、価格も当時3万円しなかったと思います。子供の玩具、というレッテルの貼られていたMSXですが、まさに10歳の子供の玩具として頂きました(笑)。しかし当時はそんな事は知りませんでしたし、夢のようでした。

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余談、後から聞いた話ですが、兄が凄く怒っていたという話(笑)。当然ながら兄も学生時代にパソコンが欲しいと親には言っていたようなのですが、10歳近く年の離れた兄の時代に、彼が学校から借りてきたようなパソコンは当時50万円ほどしたとの事で、うちの経済力ではとても買えるような代物ではなかったようです。私が欲しいとねだった時は、まあ3万円ならいいか、という事だったようで。兄の目には、自分の時はダメで、あいつの時だけずるい!と映ったようでして、、まあ気持ちはわかります、が、年下の特権、スイマセンね(^^;)

とはいえ、自分も天才少女ではないので、学ぶのは難しかったです。。本当に単純なコンソールプログラム、例えば数当てゲームとか、そんなのはできましたが、それ以上のレベルになると、中々前に進めず。条件分岐やループ、配列の基礎はわかったものの、今思えば、サブルーチンのコンセプトが理解できてなかった。なのでコード読んでもプログラムの流れがわからなかった。そして当時はわからない関数が出てきても、それが何をするものなのか、調べようがなかった。所詮小学生、本を買うお金もないし、この本を買うにも、どの本をおねだりしたらいいのかもわからなかった。それでも、家にあった雑誌で、誰かがパソコンコーナーに投稿したサンプルコードを丸写ししたりして、ゲームして遊んだり、そういった忍耐強さはありました。楕円や線のコマンドを駆使してお絵かきさせたり、そういうちまちました事もやってました。

その時代の集大成?は、6年生の時に学校のパソコン・クラブに入って(部員3名)、最後の展示会で1万行以上使って3D迷路のゲームを作った事でしょうか。前述の通り、サブルーチンを使う技術がなく(笑)、全て条件分岐とGOTOで書いたため、1万行にもなったしまったwww パソコン・クラブといっても、プログラム教室ではなく、パソコン使って楽しみましょう、みたいなクラブだったので、最後に1万行のプログラム提出した時に先生は度肝を抜かれていました(笑)。今思えば、もっと顧問の先生に教えてもらえばよかったと思いますが、クラブの活動内容と大分違ったのと、たった週一回の活動だったので、中々難しかったですね。

その後は中学に入って、残念ながらプログラム熱は冷めてしまいました。やはり上達できないのがネックになったかと思います。当時はインターネットもなかったですし、教えてくれる人や本がないと、常人の頭では中々難しかったかと思います。その代わり、という訳ではないですが、6年生の夏休みに初めて海外旅行でアメリカ西海岸に連れていってもらい、そこがすっかり気に入ってしまい、いつかロサンゼルスに住むぞ!との夢を持って、英語の勉強をセコセコやっていたかと思います。また、中学に入ってから音楽に目覚め、毎日何時間もピアノを弾いたり(これも独学)、またまたおねだりしてサキソフォンを買ってもらってそれも何時間も吹いてたり(こちらも独学)、中学後半は既に音楽三昧でした。

高校進学を考える時期になり、基本的にひねくれ者なので、普通の進学校に行くのは全く気乗りがしませんでした。本当なら、音楽の専門に行きたかった。けど、音楽高校という所に行くような生徒らは、3歳とかから音楽をやっているような人達ばかりで、とてもとても自分のレベルで入れるようなところではないというのはわかっていました。そこで目に入った東京都立芸術高校。音楽科と美術科の2クラスしかなく、それぞれ定員40名、一学年80人ちょいの、多分都内で一番小さい学校だったかと思いますが、そこの美術科に行きました(笑)。絵も好きでしたが、音楽科の隣というのが良かったという、非常に不純な動機で行ったかと思います。そこのデザイン科に三年間通い、軽音部に入った、というか率いて、バンド作って音楽やってました。幸い美術のほうも成績も良かったのですが、所詮は高校生レベル、美大に入るには高校の授業だけでは無理で、自分も含め美術予備校の冬季講習などに行って受験対策をしました。

とはいっても、実は自分はそれほど大学進学に興味が薄く、本当は卒業後は就職しようかと思っていた。でも学校の成績が良く、学校からも期待されたのもあって、じゃあ芸大だけ受けて、それで落ちたらもう諦めよう、と思い、完全に記念受験をしに行きました。というのも、芸大、しかもデザイン科の倍率は当時50倍くらいだったかと思います。2浪3浪は当たり前、逆に現役で入る人は入ってから技術が追いつかないので大変、みたいな世界なのです。試験は一次(デッサン)と二次(デザイン)とあり、一次試験に合格した人だけが二次に進みました。まあ一次で落ちるでしょ、と思って臨んだデッサン、驚いた事に一次試験を通ってしまった。流石に嬉しかったですね。。。しかし、これがまずかった。その後予想通り二次には落ちたものの、「まてよ、一次合格まで行ったんだし、来年受けたらもしかしたら受かるかも??」などという甘い考えが浮かんだのでありました。

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そして事もあろうに、浪人生活を始める訳であります。毎日美術系の予備校に行って、人生初めてのアルバイトも始めたりしました。しかし、、残念な事にその予備校がイマイチ合わなかった。。入って半年ほど経って、もう描くのが嫌というレベルでなく、何もわからなくなって混乱し、頭が真っ白になって描くことが恐ろしくなり、何も出来なくなり、毎晩苦しくて泣くほどで。それで残念ながら、少なくとも今は、この道から退こう、という結論に至りました。まあ、センスが無かったと言えばそれまでです(笑)。

そして、自分には海外に行く夢があったではないか、と思い出し立ち直り、その後普通に仕事して、新宿にある英会話とパソコンのスクールの営業したりしてました。働きながら英語とパソコンを学べる!とかいう謳い文句につられましたが、まあ学べなかったですねw

多少脇道にそれましたが、そしてその後、ここが一つの分岐点になります、完全に家からの距離だけで選んだ中小企業M社に中途採用してもらいました。普通の事務職です。給料かなり安かったけど、、家から通っていたのでまあまあ貯金も出来ていいかな、と。が、そこは当時はそんな言葉は無かったですけど、完全なブラックでした(笑)。社員の目がもう死んでます。。自分も本当に辛かったですね。古い体質の企業で、その頃にはもうIT化がどこの企業でも進んでいる中、まだまだ紙の書類のやり取りがことごとくなされれているところでした。私は営業事務でしたので、とにかく毎日書類との戦いでした。とは言っても、一応、受注・売上・会計にはパソコンを使い、既製のMicrosoft Accessで書かれた受注ソフトを使って売上や伝票を処理していました。しかし3rdパーティーの作ったソフトなので、M社の需要に完全にマッチしているとは言えません。それで、そこに当時「電算室」というのがあって、今でいうIT部門ですけど、室長と社員の二人で、別のAccessソフト作ってその既製のAccessソフトにリンクさせて、痒い所はそれで補う、的な事をし始めました。しかしながら、、そのソフトの出来が本当に酷かった(笑)。日付の範囲を入力してください、とポップアップが出てきて、日付のフォーマットを間違えて入力すると、ソフト自体がシャットダウンする、みたいな作りでした。電算室に文句を言うも、「別にそれでデータがダメになる訳じゃないでしょ、入力レベルで回避できる問題ならそこで回避してよ」みたいなあり得ない返答で、頭が沸騰しました(笑)。

その辺からです、またプログラム熱がちょっと湧いてきたのが。Access、という存在も幸いでした。まず、簡単にコードを見る事ができる。手を加える事ができる。そしてコードが変わるのは自分のマシンのみ。そこで、多少時間のある時に、ちょこちょこ中身を見て、自分仕様に変えて行ったのでした。

とりあえずまず、その値入力時のあり得ないバグをバリデーション・ロジック入れて回避したり、後は自分自身がおっちょこちょいで、入力忘れとか間違いがかなりあるので、フォームを完了する前に入力ミスをチェックするロジック入れたりとか、していきました。今でこそ当たり前にあるUXのコンセプトですが、当時は、少なくともM社にその重要度の認識がありませんでした。とにかく自分のミス回避の為にやっていったような感じです。

そのあたりで初めてAccessの本を買って読み始め、みるみる実力?を付けていったというか、やれる事が増えていきました。どんどん楽しくなり、終いには、その時人生で初めてパソコンを買い、家で自由にAccessを試す事ができるようになりました。因みに買ったのはSony VAIO、Pentium 4(多分)、メモリはいくつだったか忘れましたが、HDDは13GBで、家庭用では当時は十分過ぎる大きさでした。初めて家からネットに繋がった瞬間は凄くドキドキしましたね〜、感動でした(^^) 勿論スマホなんてない時代でしたから。。

仕事ではそのうち、自分が手書きでノートに付けていた記録を活用したかったので、Accessに新しいテーブル作って、受注とリンクさせて、秘密のボタンをクリックすると自分用のフォームが出ててそこに入力する、、みたいな改造をしていきました。また既存のシステムの受注の検索があまりパワフルでないので、新たな検索フォームを作ってもっと便利にしたり。そのうち、完全に別個のAccessプログラム作って、修理依頼の管理や、名刺管理、顧客とのコミュニケーションの記録の管理、今まで手書きだった技術依頼の添付書類が簡単に印刷できて保存できて検索できる機能、その他各種レポートなどなど、色々やりました。

それを私が使ってるのを周りの人が気が付いて、「え?何それ!自分も欲しい!」と言ってくれるまでになりました。そして当たり前ですがそのうち電算室にバレました(笑)。電算室長は怒ったというよりも、余りに想定外の事されたので面食らったようして、「うーん、君がやっているのは相当危険な事だよ。。」という特にはっきりしないお言葉を頂きましたが、え?そうなんですかー?みたいに、自分はとぼけました(笑)。でもやめろとも言われず。そのうちM社版のAccessソフトでちょっと手直ししなければならないことがあると、当時のAccessの電算室の宿命でしたが、社内のパソコンを一台一台回って、全て新しいAccessファイルをコピーし直さなければならなかったのが、私の所にはただ電話で、「あー○○が変わっただけだから、その部分変えといて」みたいに、公式に”中身触れ”命令が来るようになった(笑)。

またある日、営業部長が電算室長呼んで、「昔からこういう事で困っててさー、今度それを管理するツールを作るように検討してよ。」と話しているのが聞こえました。すると室長が、「そのツールならもうありますよ」と、してやったりの顔でツールを部長に見せました。それをチラっと見てビックリ、それ私が以前に作った修理依頼管理ツールじゃないですか!室長にその事について話した事すらないのに。

まあそんなこんなで、何が言いたいのかと言えば、自分がいかに有用なツールを作ったかという事ではなく(笑)、自分の作ったものが役に立って、感謝される事に、非常に心動かされた、という事でございます。もともと頭は芸術系、クリエイティブではあるものの、作るもの全て講評の対象で、ボロボロにこき下ろされ、例えいい作品でも自己が満足するだけで誰か欲しがる、ということも特になし(唯一例外は参考作品として生徒の作品をキープした学校のみw)。美術科で味わえなかった物作りの感動を、とあるブラック企業のAccessで味わい知ったのでした(笑)。

あ、一つ付け加えると、非常に上達の上で感謝してる人がいます。途中、元々いた営業業務から、大型システム専門の営業業務に異動になりました。そこは部長と営業さん3人と私のみで、担当は全国。それで顧客の人数も半端ない為、名刺管理ツールを作って整理し始めました。そこの主任がエリートでできる人で、管理ツール見た時に即座に使えると思い、自ら色々追加機能希望してきました。ある日頼まれた機能は、3rdパーティーAccessの中で見た事はあるものの、ワンランク上の理解がいるという事はわかっていました。(今思えば大して難しくないんですが、、単にマスター・ディテイルのコンセプトを一画面の上下フォームに分けて処理するという技。。当時はどうやってるのか、よくわからなかった。)なので「可能とは思うんですけど、残念ながら、今の自分の素人な技術レベルではちょっと難しいです。」と言ったら、すっごく淡々と、「あ、そうなんだ〜。じゃあ勉強して。」って言われた。うわ、厳し!アタシ、単なる営業事務ですけど?と思いましたが、逃げられない状況になったので、じっくり座ってコード読み込んで、サンプル作って、ようやく理解しました。自分には難し過ぎて無理だ、と思った事も、意外にも見た目ほど難しくもなく、例え難しくても辛抱強く考えて行けば必ずゴールに辿り着く、という事もわかってきました。主任は全く自覚はないと思いますが、結果的に主任にワンランク上に押し上げられてもらい、どうやって上達していったらいいのか、解決していったらいいのか、教えらた形になりました。あそこで、「そうか、難しいのか、じゃあしょうがないね。」って言われてたら、今の自分は無かったかもしれないです。ホント感謝です。そして彼と他の営業さんらが、あれが欲しいこれが欲しい、と希望をどんどん出してくれるので、それに応えていくのが、本当に勉強になりました。

とはいえ、このM社に入ったのは留学するお金を貯める為で、社員を奴隷のように扱うM社に長くいるつもりもなく、2年半経ったあたりくらいで、あと2ヶ月で辞めます、という退職願いを出しました。その前から留学の情報収集はしていて、大体行く時期の数ヶ月前くらいに辞めよう、と思っていたので、予定通りです。そしたら、その退職願いを出した直後、なぜか本社から工場の勤務に異動になりました。そこの工場長のような生産部長が色々改革好きな人で、工場の紙主体のワークフローを全てデーターベース化、電算化したい、という野望があり、そんな時私の噂を聞き、しかももうすぐ辞めるというので、辞める前にこれだけやってって!というスカウトを受けたのでした。

最後の仕事でしたが、それまでで一番楽しかったですね、もともとあるシステムを壊さないように機能を追加していくのではなく、まっさらな所に一から作っていく。しかも誰かが仕様をくれる訳でもないので、工場で働く人みんなに何やっているのか、どういう事務処理してるのか、インタビューしたり観察したり、時には一緒に仕事したりして、何が必要なのかを把握する所から全て自分でやっていきました。そして鬼社長のいる本社から離れているので、社員も生き生きしている(笑)。そこも大きかったです。最後は無事にシステムも完成し、部長もハッピー、笑顔で皆んなとお別れしました。

そこから留学準備に本気で取り掛かるわけですが、語学学校を決め、ホームステイ先を決め、学校に入金し、学校からI-20というビザ申請に必要な書類を送ってもらい、英訳した住民票を作成したり、色々リサーチに加え、勿論英語の勉強を寸暇を惜しんでやりました。そして全て書類が整い、ビザを申請しようとしたその時、、ワールド・トレード・センターに、2機の飛行機が突っ込んだ。。崩れゆく2つのビルを、リアルタイムで呆然と見てました。。

続く!

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