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あと何回の夏風邪

 この夏、見事に辛い風邪をひいてしまった。そして実は今も、若干の咳が出続けている。

 発病は8月の初旬だった。あまり心当たりはないのだが、その前々日くらいに、家の近所にあるショッピングモール内のフードコートで昼食を食べたのが災いしたのではと思う。その時、隣の席の家族連れの男の子が、さかんに咳をしていた、ような気がするのだ。
 1日おいて「何だか調子が悪いな」と感じるようになり、近くの温泉施設に行って湯に浸かったりサウナに入ったりしてみたが効果は限定的で、その翌日から症状が明確になった。熱は38℃以下に留まるものの、倦怠感と喉の痛み、そして咳が頻発し始めた。

 本棚からものの本を抜き出して調べてみるに、やや非典型ではあるものの、夏風邪の代表的な原因であるアデノウイルスによるもののようだ。
 しかし、私の見立てが正しいにしても、アデノウイルスに著効する薬は存在しない。従って姑息的に治療を試みるしかないのである。
 ちなみに、ここでいう「姑息的」は「根治的」の対語で、病因そのものに対処するのではなく、喉の痛みや咳などの症状を緩和することを指す。「姑息」というと「卑怯」というような意味を連想する人も多いかと思うが、もともと「姑息」は「一時しのぎ」という意味である。

 症状が出て1週間後、普段は行かない出先で数日間作業することになり、それがまた体調悪化に追い打ちをかける形となった。相変わらず熱は大したことはないのだが、咳は重傷化してしまった気がする。「内臓から絞り出すような咳」とは、このとき私と同行していた仕事仲間の言葉である。

 ともかく、前述のように特効薬などは望めない。症状に対し、良さそうだと思うことを、考えつく限り試してみることにした。
 まずは栄養である。疲労回復効果があるらしいと知り、以前から親しんでいた鶏の胸肉。これを鍋に用意した60℃半ば程度のお湯に浸して低温調理し、自家製のネギ塩だれをつけて食べた。美味しかったし体力にはなった気がするが、咳は治まらない。
 次に甘酒。古来、夏場の健康飲料として飲まれていたということで、最近ずいぶんと飲むことが多くなったものである。パウチに入った原液を、水などで薄めて飲むタイプのものを買い求め、日にコップ2杯、飲み続けた。
 これも美味なうえ、お腹の具合は良くなったようだが、それ以外の効果は無かったようだ。

 栄養を補うためのサプリなども試した。ビタミンなどに加え、ニンニクのエキスを凝縮したという「キヨーレオピン」なる強壮剤も試したが、効果のほどは食事と同様だった。
 最後に、近年になって手を出し始めているお灸も試した。夏風邪に効果があるとされている大椎、中脘といったツボに、動画サイトなどの見様見真似で「せんねん灸」を置くこと数分。これを数日繰り返した。

 結果として、もっとも酷い状態からは10日程度で脱出でき、9月が始まる頃には仕事に差しつかえるほどではなくなっていた。夏風邪が自然と治る時間もそんなものだということなので、上に書き連ねたような素人療法の効き目かというと、疑わしい。
 喉の痛みや熱は早々に治ったのだが、一方で咳の方はしつこく残り、この文章を書いているいま現在(10月21日)も続いている。もちろん軽くなってはいるものの、1日に数度は「内臓から絞り出す」式の咳が出るようである。
 あまり長く続く咳は慢性肺炎に移行したことを示す、という話を知人から聞かされ、不安にもなったのだが、ゆっくりながら治まりつつあるので、とりあえずは様子をみようかというところか(いや、やはりそろそろ保険診療のお世話になろうか)。

 そんな晩夏を過ごすうち、特に脈絡なく「あと何回の夏風邪」というフレーズが私の中に生じていた。
 『魔界転生』や『忍法帳』シリーズといった伝奇小説を代表作とする作家・山田風太郎が晩年に書いた『あと千回の晩飯』という随筆の題名が頭のどこかに引っかかっていたものらしい。

 とはいえ、タイトルだけを知っていて、中身を読んだわけではない。養生のついでに、このたび軽く目を通してみたら面白い。

 自分の寿命などあと1000回の晩飯を食うくらいのものだろう、というような文句を皮切りに朝日新聞で連載を始めた風太郎氏だったが、半年ほど経ったところで重病が発覚し、入院加療となる。それで連載も中断されたものの、事なきを得、さらに半年を経て連載を再開したという経緯も興味をそそられた。
 酒と煙草を愛した氏に似つかわしく、全体に飄々としつつも毒のある書きぶりながら、連載が中断される直前、つまり重病が明らかになって入院する直前のくだりは、さすがに幾分かの陰りを感じる。
 どれほどの豪傑であっても、やはり死に肉薄されたと感じた時には、弱気が先に立つものだろう。それが正しい反応であろうとも思う。

 さすがにまだ夏風邪が命取りになることはなさそうではあるが、私にしたって、いつ何がきっかけで命を落とすか知れたものではない。猛暑に強大な台風が続く現状からすれば、病よりもそれらが原因になる可能性の方が高いかもしれないし。

 「あと何回の夏風邪」を文字通りに取るならば、あと何回の夏風邪を経験できるのか、という問いになるだろう。思うに風太郎氏の晩飯以上に答えを推し量るのが難しい問いではないか。
 毎夏こんな苦しい思いをするのも嫌だし、そんなに毎度わずらう不運もないだろう。私の記憶を辿っても、3年から5年に1度くらいの頻度ではないかと思う。
 すると私が経験できる夏風邪は、あと10回からせいぜい20回くらいという計算になる。そう考えてみると、苦痛に違いない夏風邪ではあるが、なるべく多い方がいいな、と今のところは思っている。

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