共感するからイコールいい曲なわけじゃない 歌に限らず、文章でも映画でもドラマでもなんでも、共感を狙いすぎてるものは受け付けない あるある聴きたいわけじゃないから 例えばnote事務局がお薦めするnoteとか一度も読んだことないんだけど、 それらの記事からは「こういうの好きでしょ?」「共感するでしょ?」が滲み出すぎていて苦手だ 共感や承認や認知が先行してその人自身から湧き出た切実さや思考回路が全然乗っかってない既視感と手垢にまみれた借り物みたいな文章の遺灰 共感はあく
初めてMAPAを観た今年の大森靖子歌舞伎町祭でも、初めてMAPAのリリイベを立川の屋外ステージで観たときも、紫凰ゆすらのことはさして印象に残らなかった。 その名前とキャリアを以前から知っていたコショさんや、端正なSサイズのお顔からは信じられないほど力強い歌声を降り注がせる宇城茉世ちゃんのほうが印象は鮮烈だった。 実際に当時の歌舞伎町祭の自分の感想を読み返しても、おれは紫凰ゆすらに一切言及していない。 なぜ彼女に惹かれるようになったのか。 たぶん彼女のnoteを読んだの
音楽も絵画も小説も、役割を果たし終えることはない。ベートーヴェンやドストエフスキーは延々と誰かを救って影響与えているし、クラシックとか〇〇主義とか、便宜上括られはされど錆びはしない。「古い」は、相対性と個人の解釈に過ぎず、一度生まれた芸術は古くならないし、役割を果たし尽きることだってない。 2008年のZepp Tokyoで聴いた銀杏BOYZ ×YUKIの『駆け抜けて性春』も、函館で聴いたGLAYの『BELOVED』も、渋谷クアトロで観た矢沢永吉も、地元山梨で観た大森靖子も
行ってきました。 小さい空間で見る靖子ちゃんも当然良いけど、あの歌のうまさ強さを緩急自在に広い音域で轟かせるには、ホール規模はやっぱ良い。傾斜も効いてて、前で立つ人が気にならない見やすさだったし、音もよく響いた。『マジックミラー』の「あたしのゆめは」からのアカペラ部分はその象徴だった。 「今日のセトリ最高だった!」のではなくて、持ち曲すべてが良いから毎回そうなるんだなと合点がいった。今日改めてぜんぶの曲が超いいなと思ったよ。ライブでは音源の良さを何十倍にも魅力増しにして届