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共感なんて別にしない 大森靖子の新曲『更衣室ディストピア』を聴いて

共感するからイコールいい曲なわけじゃない

歌に限らず、文章でも映画でもドラマでもなんでも、共感を狙いすぎてるものは受け付けない

あるある聴きたいわけじゃないから

例えばnote事務局がお薦めするnoteとか一度も読んだことないんだけど、 それらの記事からは「こういうの好きでしょ?」「共感するでしょ?」が滲み出すぎていて苦手だ

共感や承認や認知が先行してその人自身から湧き出た切実さや思考回路が全然乗っかってない既視感と手垢にまみれた借り物みたいな文章の遺灰

共感はあくまで結果的に独自の解釈を持って着地や発見するところであって、発信する側から共感を前提に断定して押し付けてくるのは好きじゃない

書店で見かける本のタイトルは「9割」に依存しすぎ
ドラマは伏線回収しすぎ
映画は説明しすぎ
流行に乗る音楽は曲名もアーティスト名も「夜」に頼りすぎ

夜、というだけでなんかうっとり感傷的な響きを宿らせることができるからって安易に濫用しすぎ
そこに日常寄り添い共感フレーズを散りばめて抑揚のない透明感のあるボーカルを載せる

有象無象すぎるだろ

最近そんな同じような志向性のアーティストや曲がほんとうに多い
エモーショナルじゃないことがかっこいいと思ってる節がありすぎる
そんなのはもう相対性理論のやくしまるえつこが最後で最高でいいんだよ

大森靖子の新曲『更衣室ディストピア』

歌詞の意味するところに全然共感できなかったし、できるとも思わなかったし、汲み取って理解しようともしなかった

そんな共感とは無関係に曲がいい

印象的なフレーズのリフレインがめちゃくちゃ効果的で、特に「汚い汚い汚い汚い」に乗ってサビで加速したドラムのビートがとても心地良い。
常套句へのカウンターとか慣用句を裏切る言葉の発明は靖子ちゃんの真骨頂。
踏みまくる韻にダブルミーニング、暗喩や隠喩の連なりなんて、もはや掛け合わせすぎて咀嚼が追いつかない

とにかく中毒性が高い

高音を変幻自在に扱う艶っぽいボーカルは情動的でもあり、靖子ちゃん以外にこれを歌いこなせる人なんていないだろう
だからこそ彼女が歌う意味がある

靖子ちゃんは誰かの心当たりを歌にするのが天才的にうまい。自分では言語化できず名前もつけられなかった茫漠に名前をつけてくれる

でも「これ!これを歌ってほしかったの」とか「わたしのこと歌ってる」とか、そう錯覚しがちだけれど、靖子ちゃんってその一歩先をいってると思うんだよね

こちらがすでに明確に持っていた心象や景色に対して色付けてくれるというより、潜在化したまま自分でも無自覚だった感情を引きずり出して、ふさわしい歌に出会わせてくれる

自分が描いた絵に靖子ちゃんが色を付けてくれて「ありがとう歌ってくれて!」というような感覚があるけれどむしろ逆のほうが多いと思っていて。
靖子ちゃんが歌で絵を描いてくれたことで、初めて自分がそこに色を乗せられたというか

靖子ちゃんが歌ってくれて初めて顕在化された景色や感情。そこに自分なりに解釈した色を乗せてようやく行き場のなかった感情が可視化されるイメージ

今のことだけじゃない。未来のことを先回りしてもう歌にしてくれている

なんせ1年後のアルバムに向けた仕掛けを今からしてる人なのだ

常に先をいって私たちが抱く不安も迷いも最高も、安心してぶつけられる歌を作ってくれている

私たちのほうがその景色や感情にまだ出逢っていないだけで、靖子ちゃんはもうすでに歌にしてくれている

今は共感しなくてもいつかするかもしれない
たとえ共感まで及ばなかったとしても、むしろ最初からそんな次元からはかけ離れて純粋に素晴らしい音楽として独立している

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