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誰にもトレースできない人生

仮に抽選で毎日何万人も当たるプレゼントキャンペーンがあったとしたら、さすがに自分にも当たる気がしてくる。

Twitterのタイムラインでは連日のように売れっ子芸人さんたちが陽性になったとの報告やニュースが流れていた。劇場出番や収録などコトあるごとに検査をしている人たちは発覚しやすいと思う。気付かないうちに見えない刃物で刺され、見えない血が流れている。痛みも感じず勝手にかさぶたになった傷口が僕にもあるだろうか。

ネットでは有名アーティストのキービジュアルなどを手掛ける人気絵師が炎上していた。

他の作家の写真やイラストを許諾なくトレースし、あたかも自分オリジナルの作品かのように発表、商売にしていた。パクるのが簡単になった一方で、バレるのも簡単な時代。悪事は千里を走る。他人の芸術を掻き集めて作られていた神輿は無様に解体され、解体された部品の数だけよく燃えた。神輿から引き摺り降ろされた男は今もネットの寒空の下で八つ裂きにされている。

この一件で思い出したのは大森靖子が著書『超歌手』で書いていた一文だった。

「綺麗事っていうのは、誰かの綺麗を途中経過抜きでいきなり答えだけパクるから説得力がないんだよ」

スマホは現代のドラえもん。
どこでもドアを開くようにワンタッチで世界中からありとあらゆる情報を取り寄せられる。世界の絶景も偉人のアイデアも名もなきミュージシャンのコード進行すらも。
まるで最初から自分の部屋の本棚にあったみたいに取り出せる。いつからか見てくれだけは立派な「答え」ばかりがコレクションされ、解き方と経験だけが蓄積されない。情報は頭からいつでも取り出せる状態にして初めて知識といえる。知識は自分なりの経験や解釈を通してようやく教養になる。教養が野菜より不足している。そんな生活。

こんなにもお手軽便利になったのに唯一見つかりづらくなったものはなにか?

オリジナルだ。

オリジナルだけはそうやすやすと見つからない。それだと判別できない。唯一無二だと思い込んでいたものが誰かのオリジナルを薄めただけのジェネリックオリジナルだったなんてケースはごくごく平凡な話だ。

無意識に取り込んでいる影響や情報。取捨選択のリテラシーはもはや当人ですらコントロールできず、把握しきれていない。

すこしでも抗える手段があるとすれば。
自分の血肉をかけて、時間や熱量を費やして、目を逸らすことなく向き合い続けたモノだけはきっと限りなくオリジナリティを纏うだろう。いつしかそいつは本物と評されることもある。容易にトレースもコピペもできない体験が、信念が、人生が、これからの複雑な時代を生きる人間の真の価値を作っていくような気がする。

表面の書式だけはコピーできているのに数式はコピーされていないExcelみたいな、そんなインスタントな人生になりませんように。近道を繰り返すうちに地図も地理も読めない人生になりませんように。あなたの主義主張が誰かの引用じゃありませんように。

借り物じゃない言葉だけを探している。

サポートが溜まったらあたらしいテレビ買います