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「わからない」を引きずりながら生きてみようと思った 『ナミビアの砂漠』感想

公開初日レイトショーにて鑑賞。

鑑賞後すぐにXに投稿した内容に加筆修正し、感想をまとめた。パンフレットやインタビュー記事はまだ未着手のため、作り手が訴求したかったテーマの本質とは解釈がずれている可能性は大いにあるが、素直に感じ取ったものを載せたい。

新宿シネマカリテは満席で、素敵な空間に仕上がっていた。

<ストーリー>
世の中も、人生も全部つまらない。やり場のない感情を抱いたまま毎日を生きている、21歳のカナ。優しいけど退屈なホンダから自信家で刺激的なハヤシに乗り換えて、新しい生活を始めてみたが、次第にカナは自分自身に追い詰められていく。もがき、ぶつかり、彼女は自分の居場所を見つけることができるのだろうか・・・?

受け取った印象は、主人公カナから滲み出る「退屈と苛立ち」だった。

カナはとにかく退屈そうだった。退屈そうで鬱屈としていて、苛立っているし憤っている。その退屈と苛立ちからすぐに渇きを覚える。その渇きは「欲しいものが手に入らないもどかしさ」だったり「すんなり手に入ってしまうつまらなさ」だったり「本当に欲しいものがよく分からない途方もなさ」だったりする。

カナにとってこの世界は砂漠のように映っているのかもしれない。時折オアシスを見つけて立ち寄っては水を飲んでみるけれど、すぐに飽きてしまう。白けてしまう。蜃気楼となって消えてしまう。住宅街を呆然と徘徊するようなシーンがあったが、まさに砂漠をさまよう旅人のようだった。

世の中との折り合いのつかなさ、生きづらさという観点でいえばありふれたテーマだとは思う。「めっちゃわかる」「私の話だ」そう感じるひとも全然いるはずだ。だって普遍的な葛藤が終始根底には走っているから。

都会の片隅に生きる21歳の女の子。家庭環境がちょっと複雑で根無し草のように夜を渡って、男を乗り換えてセックスしてピル飲んで、タバコ吸って誰かに愚痴ぶつけて逆に愚痴聞いて、メンクリ行って。

きっとこんな女の子は無数にいて、これはケース「カナの場合」に過ぎない。そしてそれがある種ドキュメンタリーにも見える本作のリアリティであり、面白さだった。世界との折り合いがついていない。生きづらい。この年代の若者ならごくごく陳腐な葛藤だろう。けれどその陳腐になりがちな葛藤を生々しく、映画としての完成度でグイグイ引き込ませ、鋭い視点を絶やさずに力強く描き切っている。

カナは愚かなところは多々あるかもしれないが、馬鹿とは違う。脱毛サロンできちんと仕事をしているし、他人や年上との関わり合い方も基本的には常識を持っている。正論も持論もあり、大人びたクレバーな面も持っている。その点が「カナの場合」として、カナをカナたらしめている。

要するにすごく人間味があるのだ。ただの馬鹿な阿婆擦れではないし、ずっと破天荒で非常識でもない。ぶっ飛んでるところを見せたと思ったら、場面に応じて礼節をわきまえた外ヅラも出てしまう感じ。それは繕ってるとは微妙に異なるニュアンスで、他者への自然な反射だと感じた。他人行儀の芝居というか、特に歳上の他人に対する会釈、目礼、微笑…これらの演技(演出)が絶品だった。

新しい彼氏であるハヤシの親族や友人知人に会った際のカナの立ち振る舞いは象徴的で、この多面性がとても自然だった。この点については平野啓一郎著『私とは何か』(講談社現代新書)で平野さんが語る「分人主義」を思い出した。

分人主義とは
一人の人間の中には、複数の分人が存在している。両親との分人、恋人との分人、親友との分人、職場での分人、・・・あなたという人間は、これらの分人の集合体である。(中略) そのスイッチングは、中心の司令塔が意識的に行っているのではなく、相手次第でオートマチックになされている。街中で、友達にバッタリ出くわして、「おお!」と声を上げる時、私たちは無意識にその人との分人になる。

平野啓一郎著『私とは何か』(講談社現代新書)

カナは双極性障害や躁鬱といった類の描写もなされるが、いわばこの分人主義でいう反射的多面性を持っているに過ぎないようにも見える。葛藤自体は言葉にしてしまえばマイノリティではないからだ。

平野さんは前述の本で「本当の自分なんて存在しない。その実体のないものに人は捕らわれて多くの苦しみとプレッシャーを受けてしまう。どこかに本当の自分があるはずだからそれを探さなければと。しかし実際は相互作用の中で生じる別の分人に過ぎない」といったふうにも綴っている。

わりといまや古い価値観となった「自分探し」の否定ともいえる。

カナは自分探しと言わないまでも、言葉にならない形にならないもどかしさに苛立ち続けている。でもそれはおそらく完全に見つかることはないだろう。ハヤシと不毛な喧嘩を繰り返し、仲直りしてもまた同じようにぶつかり合う。でもそれこそが普通なのだ。カナの人生に生じる普遍的な日常なのだと思う。

「分からない」というキーワードも出てくるが、まさにわからない。相手のこともわかんないし、自分のことだってわかんない。日々その連続で、だからこそこういう映画を通じて客観的に俯瞰的に他人の頭の中や人間関係を覗き込む必要があるのだろう。そりゃわかんないよね、だから生きづらいしぶつかるよね、じゃあそれをふまえたうえで自分はどう生きる?を見つける。わかんないをわかるようになることが第一歩だ。

元カレのホンダはカナのことを理解していると言い切っていた。それは優しさだし実際カナも何度も救われたはずだ。同時にその「理解している」という言葉の持つ傲慢さと暴力性にはハッとさせられる。カナの興覚めするような表情は印象深い。ホンダはわかんないことをわかっていない。俺はわかっているんだとカナにわからせたい。そこにカナは苛立つのだ。ホンダを演じた寛一郎の、社会的には有能なのに、恋愛やプライベートにおける無能さ(空気を読んでるようで読み切れていない様子)は絶妙だった。キャラクター造形が良く、それに応えていた。

ホンダ(寛一郎)

ハヤシ役の金子大地も良かった。とにかく声がいい。カナとの取っ組み合いのシーンや隠せない苛立ちがうまかった。謝り方と怒り方の押し引きが本当に彼氏(男)のそれだった。

ハヤシ(金子大地)


そしてどえらい美人が出てきたと思ったら唐田えりかだった。スクリーンで見るともっと伝わるが、本当に綺麗だった。素敵なセリフを放つ役柄。てか色んなタイプの綺麗な子が出てきたね。

ひかり(唐田えりか)

河合優実の瞳はなんて雄弁なんだろう。
その視線の先、思考の先を没入しながら追ってしまう。剃っても剃っても生えてくる退屈。退屈は形を変えてまた別の退屈や苛立ちを連れてきて、彼女はすぐに渇きと憤りを覚える。

カナ(河合優実)


その苛立ちや憤怒の発露がとてもリアルだった。声の張り上げ方、男の言動に引っかかるポイント、衝動性、転んだり跳ねたり走ったりの隅々の動作まで。ハヤシの「映画でも見てれば」に対する返しの言葉は最高だった。首をやってから椅子に座ったまま煙草を吸わせてもらってOKしてグーサインするシーンとかも大好き。
めんどくせえ!と思う部分はたくさんある女の子なんだけど、河合優実は愛らしさを失わせない。
肉感的な下半身やくびれもセクシーで、女性の山中監督が撮っているのもあって変ないやらしさも感じなかった。病的な細さとかでないのがカナの魅力を担っている要素のひとつですらある。何より生きづらさを明らかに抱えながらカナって別に諦めてはない。完全に諦めて絶望しきっていないところがいい。頼るときは誰かを頼るし、甘える。そういうところもチャーミング。

本当に底知れない魅力を持った役者だ。


頭を通り過ぎて欲しくない芯を捉えた台詞も多く魅了された。
ビビッドカラーの作品ビジュアルにも使われているランニングマシンのシーンもすごく良かった。これぞ映画だって感じ。

体感は決してあっという間というわけじゃないんだけど、冗長に感じかける瞬間を見越したようにキレのあるカットやセリフが飛んでくる。万人ウケする作風でもないとは思うが、届く人には必ず深く届く力強い映画だった。個人的には大好きだ。

貧困、少子化、性差、年代フェーズごとの苦しみ。

分かんないを引きずりながら、今日も生きようと思った。


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