あなたたちの反応が、わたしです
むかしより情念が薄れた。
20代初めの頃まではもっと沸き立つような怒りを持っていた。
出会う人たちに対して、世の中に対して。
「厨二病」なんて言葉があったから、共通の通過儀礼のように、単語ひとつで片付けられてしまいそうだ(そういえばすっかり聞かなくなったね。死語かもしれない)
今と同じで愚かでも、かつてのそれはもっと素直だった。幼稚である反面、邪気も無かった。わかりやすく誰かに当たるときもあったし、哀しみに従順になって泣けた深夜3時もあった。
無知、無茶、無謀。
そんな三拍子を誰かに咎められても、たいして卑屈にならなかった。
感情に揺さぶられ視野も心も狭かった当時と、小手先で見栄えを取り繕えるようになった現在と、どちらが良いのかはわからない。
いつかの自分が心から憧れる魅力的な人間に成れていないのは間違いないのに、もはやそこに悔しさも覚えなくなった。
悔しい気持ちに慣れることだけが悔しいのかもしれない。
不戦勝や不戦敗が続き、スコアブックには何も残らない毎日を重ねながらも、世間が認めるような幸せを掴んだりもして。
自分と対話し続けることに少々疲れた。飽きてきたというべきか。
『自分なくし』
この言葉はみうらじゅんによる造語だが「自分探し」ではなく、このあえて自分から距離を取っていくスタンスは見逃せない。外の世界に目を向けると、逆に本来の自分が浮き彫りになる。
ドーナツ本体ではなく、穴の先にある景色を捉えることで、客観的に輪郭が見えてくる。外の広さを知ってから見つめれば、ピントは初めて合う。その輪郭こそ本質ではないか。
たかだか"初めての人生"で、自分の何を知った気になってこのまま生きようとしている?
外に目を向けて生きる。
それは新しい人に会うことだったり、歩いたこともない街を歩くことだったり。過去には手もつけなかったようなテーマの学びをしたり、何年も以手をつけていない物すべてを捨てることだったり。
自分を高められる変化をなるべく習慣化する。習慣化したものからしか結果は出ない。意識して加えた変化からしか、確かな刺激は得られない。
今の自分の枠を、可能なかぎり広げられる外への動きを模索している。
かつて過剰な自意識に苛まれ、その生きづらさをよく語ってもいたオードリーの若林さん。
彼も世界を旅し、年齢を重ねて、結婚を経験するなどして今では「ずっと内面ばかりを覗き込んで他人を見てこなかったが、他人への興味が急激に湧いてきた」と自身の番組で吐露していた。著書の紀行エッセイでもその心境の変化は読み取れた。
人並み外れて繊細で脆くて独りよがりな僕らは、あらゆる挫折や痛みに病んで、ある時は肥大した自意識に翻弄され、またある時は仮想の敵への先制防御と理論武装に消耗し、ついつい自己へと深く潜ってしまう。
自分の中にこそ答えはあるはずだと。
自己分析の果てにこそ、エポックメイキングな生き方や価値観が見つかるのではないかと。
10代の半ばから躍起になっていた。
だが、徐々にではあるものの、ようやく自分にだけ向けていたレンズに懐疑的になった。レンズは曇り、汚れ、フォーカスも合っていなかった。
そんな前提。
呆れるほど膝を付け合わせた勝手知ったるそいつとは、上手く距離を取る。
外へ外へと視野を広げたほうが、よほど目に映る世界は変えられそうだ。目に映った新たな世界は、きっと内面にも反射し、初めて出会う自分を引きずりだしてくれる。
かなり前に渋谷のパルコ劇場で観た本谷有希子作・演出の舞台で、傍若無人な女を演じていた主演の長澤まさみは、恐ろしいほどの美脚と赤い髪をして、こんなセリフを吐いていた。
「あなたたちの反応が、わたしです」