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【Y2K】はじまりは2つのスーツケース

2003年9月。LAXに降り立った私には、興奮と不安が合わさった、なんとも言えない感情が渦巻いていた。持ち物は、パンパンのスーツケース2つ。ありったけのおしゃれな服と、日本食の調味料と、Macbookが道連れだ。

生まれてからそれまで、大学進学をしても、社会人として働き始めても、「ここ以上便利な場所は他にないでしょう」という母の一言で、都内にある実家を出たことはなかった。

これからロサンゼルスという異国の地で生活することはもとより、実家を出て暮らしを始めることへポジティブとネガティブな気持ちが秒速で身体の中をグルグル回る感覚は、体験したことがある人にしかわからないものなのかもしれない。

人生において「シュミレーション」ほど大切なものはない、と私は思う。

一夏前、サンディエゴ在住の友人の家に1週間転がり込み、カリフォルニアでの生活をじっくりと観察した。自炊する様子や、ちょっとおしゃれなレストランでどんなものが食べられて、周りの人たちはどんな装いをしているのか。生活感や行動様式を「米国に住む日本人」の目線で辿ってみた

まず移動はすべて車というところ。

大学入学して、私がとても楽しみにしていたことの一つが、車の免許を取ることだった。ドライブが好きとか車が好き、というのではなく、車に乗れさえしたら、「好きなところに自由に気軽に行ける」という理由で、免許が欲しかった。

入学式を迎えた週に、自動車学校の入学も済ませた私は、1年の夏前に免許を取り終えた。在学中は親の車を乗り回し、サークル活動では率先して車出しを担った。だから「移動の基本が車」というライフスタイルは、そもそも私にぴったりだと思った。

次に気候も、空間も、とにかく穏やかだといういところ。

基本的に寒いのはあまり好きではない。加えて東京の混雑さにストレスを感じていた私にとって、ロサンゼルスはまさに「憧れの地」だった。当時サーフィンに夢中だった私にとっては、海が近いのは+だし、人との距離感も「レイバック(=日本語を私は「まったり」と訳すことが多い)」という英語が示すとおり、のんびりとした人間関係というのも気に入った。

もちろん、都会っぽいダウンタウンやハリウッドとあるし、海沿いや山の中の田舎っぽいのんびりしたところもある。土地的なそのバランスが最高だと思ったのだ。

そしてここなら絶対やっていけると思った最大の理由が「食」だった。

いくつものスーパーマーケットはもちろんだが、週末には「ファーマーズ・マーケット」と呼ばれる市場があちこちに立つので新鮮な野菜や果物が手に入る。SUSHIと書かれた店は車を走らせれば見つけられるし、日系のスーパーのMITSUWAや、アジア系のスーパーがいくつもあるので、醤油や酒といった馴染みの調味料はあらかた手ごろに手に入る。

もちろん奮発すれば、高級な日本食も楽しめるし、立ち寄った日系スーパーのあるモールでは、うどんやラーメンを手ごろに食べられるフードコートもあった。

これなら絶対大丈夫。はじめて実家を出る生活先が異国でも、やっていける自信は出来上がった。

もちろん、留学先の大学に関するシュミレーションを怠らなかった。

実は日本でアパレルに就職する直前、一度下見に行っていた。当時は、ファッションの専門大に通って、何を勉強したら良いか全くわかっていなかったこともあり、大学の良さを実感できず、結局そのままあ就職してしまった。でも3年働いてわかったことは、ちゃんと体系立ててファッションについて学んだら、将来自分が独立する時、糧になるに違いないということだった。

当時、起業家になることが私の夢だった。洋服を作って売る世界にとてつもなく魅力を感じていたのだ。

留学の目的を「ファッション・マーチャンダイジング」に定めたのは、もの作りを量産する現場に必要な知識と経験を養いたかったから。高級メゾンの1点もののドレスをデザインして、仕立てて売ることではなく、一般ピープルの私たちが手ごろに着れる「大量生産される洋服」を、いかに効率的に生産し、販売し、ブランドの認知を高めるか。それに興味があったのだ。

進学先は「Fashion Institute of Design and Merchandising」通称FIDM担った。

ちなみに、FIDMにもデザイン科はあるが、本気でデザインを学びたかったら、そもそもカリフォルニアではなくNYに行くべきだし、パリやロンドンに行くべきだ。実際LAからNYに留学していく子たちも何人もいた。それに個人的には、東京でも十分世界に羽ばたくデザイナーになれると思う。

でも「マーチャンダイジング」は、ロサンゼルスに行かないと学べないと肌で感じていた。学問として、商品企画の仕方や、商品店振り(アロケーション)を効率的に考えたものづくりを学べる場所は、日本には他にないと感じたのだ。此処の会社で作られた生産工程やそのやり方は、各企業が「なんとなく」作り上げてきたものばかりだった。(当時は!)

もちろん、文化服装学院やバンタンなど当時の日本の学校のプログラムも見てみたけれど、私が知りたいと感じたビジネスに特化したファッション専門校のプログラムはなかったのだ。

FIDMへ入学して、「マーケティング」の授業や、「アロケーション」について学んだ時、「もっと早く知りたかったぞ!」と何度思ったか。同時に、ここで学んだ知識や人的ネットワークが、これからの人生でぜーーーたい役立つはずとピンときた。

「生産拠点」となる工場がたくさんあるロサンゼルス。米国で一番近い海外拠点である「メキシコ」をはじめ、南米だけでなく、韓国や中国をどかーんと動かすカジュアルブランドの拠点は、当時軒並みロサンゼルスとサンフランシスコだった。GapもJuicy CourtureもVon DutchもTrue Religionもカジュアルファッションブランドはカリフォルニアから始まっていたのだ。

彼らがどうやってブランドを世界に轟かせ、もの作りをしているのか。それを知りたくて仕方なかった。

時は、Y2K時代ど真ん中。

世界のファッションを圧巻していたのは、ロサンゼルスのブランドばかりだった。プレSNS時代に、LAでショールームを始めることになった私の冒険ものがたりはここからはじまる。

#創作大賞2023
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