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【Y2K】会社設立から虚勢を張ったその先にあったものは、、、

2005年7月。私は晴れて、米国法人を作り、ショールームを持ったことで「一国一城の主人」となる。

私が米国で起業を決めた過程にはいくつかのステップがある。

①どうしても米国に住み続けたかった
②それにはビザが必要
③ビザの種類で一番手っ取り早く手に入れられるのはH-1ビザ
(ただし現在はそれは微妙)
④まずはH-1 ビザのスポンサーをお願いできる企業を見つけたが、そこから給与が出るわけではなく、仕事はフリーランスで稼せぎ、会社に支払ってもらう形で給与を得る仕組みで両者納得の契約
⑤給料がビザ発給会社からしかもらえないため、人の会社だと何かと不便。経費は全く経費精算できずじまい
⑥だったら自分で会社を立てて、そこからビザを発給してはどうか。少なくともやってみる価値あるねと弁護士(私の場合は、すでにH-1ビザが取れていたので、スポンサー企業をスライドするだけで済んだ)
⑦資本金を親に支援してもらい会社を設立し、米国で自分の会社を始める

27歳になった夏、私は移民弁護士の事務所にいた別の商業弁護士に依頼して、開業準備を始めた。無事に登記が終わり、日本人のCPAも確保。

今でこそスタートアップはキラキラしているけれど、IT業界でもない当時の私は単純に「若い女の子が会社を始めてみた」という状況。普通にしているとただでさえ若く見られるアジア系の私は、この時代ほど「早く歳取りたい」と思ったことはなかった。

特に銀行の対応は、本当に全く対応が違うから笑える。

最初に訪れたのはWashington Mutualという銀行。周囲の人からビジネスアカウント開けるなら、いろいろサービスがいいという情報を聞いて足を運んだ。女性のおばちゃん担当者に通されたものの、彼女の態度が全くもって白けた感じで、「どこがいいわけ?」と感じてしまい、結局口座開けずに席を立つ。

そこで、個人のメインバンクだったWells Fargoに行ってみることにした。選んだ支店も家の近くで、とりわけ小さいブランチ。でもここのビジネスアカウントの担当者のシーザーが、本当に親身になってくれ、私の事業は無事に銀行口座を持ってローンチすることができた。

なお、Washington Musualはその後、Chaseに買収される。Wells Fargoはローレン・バフェットの強い支持もあり、AAの力強い評価を持つ銀行。個人的には、1顧客として一人一人のバンカーの態度や支店の雰囲気は、全体の評価に一致するなぁと思っている。WFのバンカーで、すごくできるなぁと感じた人にこれまで何人も会ってきたから、おそらくこれは彼らの会社の魅力にも合致しているのだと思う。

ちなみに、米国よりも酷かったのが、日本の銀行。私の事業のウリは、日本のアパレルブランドの米国販売だったこともあり、日本の個人のメインバンクに事業用の口座開設をする必要があった。20代の若い小娘が「事業用口座」を作りに現れたときのおっさん担当者の上から目線で、傲慢な態度は、ぶっちゃけ一生忘れない。あの時ほど、「米国で事業始めて良かった」と思ったことはない。

銀行口座開設の次は、オフィスである。私の事業は「ショールームビジネス」と決めていたので、ジェームスが仕事をしていたカリフォルニアマーケットセンター(通称CMC)にオフィスを借りることを決めた。

本来なら、もっと手堅く、自宅で細々始めて、営業活動をすることでも良かったのだが、当時経験も人脈も、まだまだだった私は、「虚勢を張ってでもまずはココっという城を早く持つ必要があると思っていた

「形から入る」ことにしたのである。

そのために、手元にあった資本の一部が目減りしていくのは仕方がないと思っていたし、実際にこの手法は間違っていなかった。

ショールームを構えたから、仕事を任せてくれたブランドは登場したし、日本のブランドを並べているカリフォルニア初本格マルチブランドショールームとして、ロサンゼルス発の業界紙「California Apparel Newsが、ショールームを写真付きで紹介してくれた。

さらに、このショールームがきっかけで、セールマン仲間(今でも大親友)ができたり、ファッション関係者やトレードショーの関係者とパイプを築くことができた。さらに、その後私が事業転換していくカタログや雑誌というメディア制作の仕事を行う拠点もできた。

もっというなら、ファッション業界を辞めて、突然「ベトナムに行く」と言い出したジェームスから、彼が扱っていたブランドをまとめて引き継ぐことができたのも、背伸びをして城を持ったおかげだ。(私が開業して半年でジェームスのブランドをごそっと引き継いだのだ。おかげで事業はかなり安定した)

こうして、ショールーム事業をベースに、私の起業家としての孤独な戦いが始まった。

27歳。完全に経験不足で、計画不足で、人脈不足だった私。

今なら言える。

もっと人を上手に巻き込めていたら、本当にいろんなことができたと思う。それもロングタームでだ。

もちろん、アシスタントをいろんな人にお願いしたし、プロジェクトを一緒にやってくれる仲間もいた。

でもそれと私が今言っている「人を巻き込む」とはちょっと違うと今ならはっきり言える。

1人の人間ができることは限られていて、事業を大きくするためには、やっぱり本気で関わってくれるチームメンバーを増やしていく必要があった。そしてそのために、ちゃんと「メンター」を見つけるべきだった。ことある時に、伴走してもらったり、引っ張り上げたり、引き戻してくれる人が必要だったのだ。

メンターを見つけようとしなかったこと。メンターが必要だと思わなかったことが、何よりも私の最初の事業の失敗だ。

もちろん、ジェームスはセールスマンとしてたくさんのイロハを教えてくれたけれど、彼にメンターとして「事業経営」面でのアドバイスをもらったことはなかった。

私がショールーム事業を運営したのは丸3年。

結局婚約直後、子宮筋腫が見つかり、手術前にショールームを手放して、事業を縮小し、他のショールームに間借りする形で事業を続け、子どもが生まれたのを機に、セールスマンとしてドサ周りが必要なショールームビジネスから一線を画し、メディア制作に事業転換した。

1人の事業だったからこそ、このように身軽な転身ができたと思っていたけれど、もしかしたら、ショールームのセールスビジネスがもっと成功していたら、オーナーとして事業を継続できたかもしれないなぁと今なら思う。

当時付き合っていた今の夫は、ショールームをオープンした当時「いきなり事務所にお金をかけすぎる」と言っていたし、「君は営業努力が足りない(=つまり売上へのコミットが低い)」と厳しいことを言われてきた。

今だからこそ、思う。

その通り。もうグーの手も出ない。

米国でショールームをしていたその当時、日米のクライアントが飛ぶ(破産する)経験もしたし、セールス担当したブランドが支払いしてくれなくて、取り立て屋を使って徴収したこともある。

米国のファッション業界の危うさは、当時想像以上だった。(多分今もあんまり変わっていない気がする)

トレードショーでオーダーをもらい、クレカの番号ももらって半年後、お店に出荷連絡をしたら店がなくなっていたり、クレカが全く使い物にならなかったり、お店が違う名前になっていたりなんてよくある話しだった。

30歳になりたての新米経営者なりに、毎回トラブルは一個一個潰したつもりだし、その度に肝も座ったし大きくなった気もする。でも資本金を倍以上にして返済することはできなかった。甘い。完全に甘かったのだ。

さらに、少なからずある一定の人の期待を裏切ってしまったと思うし、思い通りにものが売れず、プロジェクトが頓挫したこともあった。特に、関わったデザイナーや日本人スタッフには、私の力不足にげんなりした人もいたはずだ。資本を出してくれた親の期待も裏切った。

全てはリーダーである私の責任だけれど、そのように自分の非を認めて、人間関係においても、良好な関係性を保ち続けられている人もいれば、そうでない人もいる。

当時を振り返ると、私の事業を大きくできなかった理由が、「パッションが足りなかったから」なのかは疑問だ。パッションは十分にあったと思うし、そのおかげで、事業に乗っかってくれた人たちがいた。

むしろ計画不足だったのだ。具体的な日、週、月、年別の計画が甘かったせいだと思う。そしてそれは「最終的に手に入れたいゴールが見えてなかった」ことに影響する。

どこへ進みたいのか。そこが見えてなさすぎたのだと思うのだ。

できるだけ詳細に理想を掲げるThink Bigであるべきだったのに、Thought too Small だったのだ。

現在テレビでやっているトリリオンゲームを見ながら、そうなのよ、このくらい大風呂敷で良いのよ、とか思って見ている。ドラマなのは100も承知。それでもリアルなビジネスにもこのくらいの強烈さがいると思う。

来年、私は起業して20年目の節目を迎える。

あの頃のLAで、私が始めたファッションショールームの事業は跡形もなくなってしまったのだけれど、そもそもファッションビジネスを取り巻く環境自体、随分変わった。

SNSで個々のデザイナーが、自分のクリエーションを販売するルートを構築する方法や、必要な資金を集めるためにクラウドファンディングを通じて物を販売するルートが構築できるようになった。

一方で、キラキラだったファッション業界は、今ではサステナブルな社会を汚す業界の筆頭に挙げられているし、紙のカタログはもっとも不要な営業ツールだし、そもそも洋服自体買うのを躊躇する現代のZ世代に対して、これからのファッションをどこへ向かうのか。

それでも、ファッションが(一部の)人に夢を与えている業界であり続けているのも事実だ。実際に今私は日本から世界のファッション業界で確固としたインパクトを与えたいと頑張るデザイナーのSatomiさんを応援している。(私が書かせてもらったプレスリリース↓)

彼女の活動に、たくさんの支持が集まり、資金援助はもちろん、オープンチャットにはクラファン終了後も、たくさんの支持者たちがサポートを続けている。

私自身は、Y2K時代に比べ、いい感じに歳をとり、いい感じに体型は丸くなり、同時にメンタルはタフになって、頭はそれなりにシャープになったと思う。

コロナ禍で、もう一度「事業を始めたい」と思い、最初に選んだ業界は「教育」だったのだけれど、そのゴールの見えにくい世界で、「ビジネス」が正解なのかかなり悩んだ。そしてこの1年、どう前に進んでいくべきか考えてきた。

私はビジネス=お金を儲けるという視点で、明確にゴールを持って突っ走りたい

なのでそれは教育ではないと思うようになった矢先、ファッションの世界が再び私に近づいてきた

今私がやりたいことは、自分の子どもたちに、目標を設定して突っ走る自分の姿を見せること。その突っ走る姿見せることが、私が目指す「教育」の姿に繋がる気がしている。

だったら、もう一度ファッションの世界に足を踏み入れてみようかな。

20年の時を経て、私の挑戦は再び始まる?!

おしまい

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