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『人間失格』の主人公『自分』はいつ「人間」を止めたのか

週末、神保町でふらっと入ったブックカフェ 「神保町ブックセンター」 がとても素敵な場所だった。
壁一面に並べられた岩波書店の文庫、絵本、辞書、辞典、etc.
本、しかもどちらかと言えば古典が好きな人には天国のような場所だろう。新しいお気に入りに出会えた私のテンションは上々だった。

そこで売られていた岩波書店の文庫風のメモ帳を一つ手に取った。
お馴染みの唐草模様があしらわれているものが5色。
色ごとに、近代文庫の英字タイトルが書かれている、例えば「kokoro/Souseki Natsume」と。
その中で、聞きなれない英題を見つけて手に取った。

No Longer Human -Good bye- Osamu Dazai

これが『人間失格』だと分かるのに、だいぶ時間がかかった。
それくらいに、このタイトルは私にとって衝撃が大きかった。

人間失格を単純に訳せば、「Human Failure」や「Disqualified Human」だろうか。
でも、この英題は日本語に戻すとこうなる - もう人間ではない、さようなら‐と。なるほど、そう来たか!と意表を突かれた面白さの歓喜と共に、これを訳した人物と私の『人間失格』の解釈の違いにひどく驚いた。

これだから、翻訳はおもしろい。


さて、ここからは私の解釈と推測、妄想であることをご容赦いただきたい。

私がこの英題を見て「ん?」と思ったことは1つ:物語の主人公『自分』(大庭葉蔵)は1度でも人間だったのだろうか?

もちろん、妖怪や魔物という意味ではない。ただ、彼は幼少の頃から父を中心とする家族のため道化を演じ、家を出てからも人が望むがままに他人も自分も欺き生きてきた。詰まる所『人間』の定義の話にはなるが、生物学的には間違いなく人間だった『大庭葉蔵』は、自我を早くに殺してしまった『自分』を人間だったと表現するだろうか。

私の解釈では「NO」。私は、彼は人間社会に紛れ込んだ道化であって、人間ではなかったと読んでいた。酒に溺れることでも、薬に縋ることでも、そのために人を騙し罪を重ねることでもなく、彼は、物語の最初から人間でいることを止めていた『人間失格』なのだ。そうなると、この英題とは真っ向から衝突する。この訳では、ある一時まで彼は人間であったのだ。


この英題を否定するつもりは全くない。むしろ、私の解釈からでは絶対生まれない訳で、大げさに表現すれば「青天の霹靂」だった。最後に加えられた『Good-bye』に至っては、『自分』ではなく、執筆後に亡くなった太宰治の人生に関する壮大なネタバレだ。読んだことがある人なら分かると思うが、作品の最後に『自分』の末路は描かれていない。亡くなったのは、作者である太宰だけなのだ。

私は仕事で英訳に関わるようになって、もうすぐ丸4年が経つが本当にこの仕事は奥が深い。特に訳された文を単語単位まで分解していくと、翻訳家の性格や好みが見えてくる。残念ながら、私は『人間失格』の英題をつけたどこの国の誰かと会うことも話すことも叶わないだろうが、あの世やこの世で会えるのならば話してみたいものだ。

そして今日もまた、おもしろい何かと出会えますように。
最後まで読んでいただきありがとうございました。

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