木村花さんの問題に対して求めること

「中学生が火事を起こしたって」
「えっ、どこで?」
「厨房(中坊)ですよ」
どうも!
冒頭から不愉快な小噺を浴びせかけてしまい、失礼しました。
ふねいちゃんと申します。
一人称はふねいです。
(チューボーですよはザッピングで一瞬見たなあぐらいの記憶しかございません。)


今回は「木村花さんの問題」について考えていきます。

先日伝わった花さんの訃報は、すごくセンシティブでショッキングでした。
ふねいは、テラスハウスのファンです。
(チューボーですよにはなんとも思ってません。)
Netflixでエピソードの更新がある月曜日を毎週楽しみにしていました。
そんな番組が原因で、花さんを追い詰めてしまっていたかもしれないというのは、一視聴者として本当に思いがいろいろと巡っております。

問題の解決にあたって、現在さまざまな場所で発言や議論がされています。
その多くは、「番組制作サイドによる演出」「SNSによる誹謗中傷」の2つに大きく分けられるかと思います。

ふねいは「SNSによる誹謗中傷」に焦点を当てます。

その理由は、テラスハウスをファンとして楽しんでいたため、「番組制作サイドによる演出」の問題の改善を考えることは、過去の楽しんでいた自分自身を否定することにつながるためです。
お気に入りのレストランに通い、週替わりで出されるシェフお任せのコースに毎度「美味しかった。また来ます」と舌鼓を打っておいて、いまさら、「やれ、調理方法を改めろ」「やれ、経営方針がおかしい」などという掌返しのクレーマーになり下がりたくありません。ふねいは、レストランをシェフを料理を愛していました。彼らがしかるべき準備を終えしかるべき環境で、事件についてきっちり説明してくれると信じております。
だから、「番組制作サイドによる演出」には現段階で口出しいたしません。

※ふねいの知り合いは「テラスハウスで花さんを知って、試合に実際足を運んだ」と言っていました。花さんにとって、決してデメリットだけの番組ではなかったのも事実です。


さて、「SNSによる誹謗中傷」ですが、ここで言うSNSはTwitterに限定します。
その理由は、ふねいの肌感で、各SNSと比べて最近すごくTwitterが荒れていると取れるからです。Twitterの特徴として、リプライが見やすいことが挙げられます。そこに、リツイートやいいねの機能で、枝分かれしていき建設的な会話が妨げられるのです。
また、アンチやヘイトといった反対意見がもてはやされる風潮も感じます。

よく議題に挙げられる「ヘイトした側のリテラシー向上」は、どれだけ時間と労力がかかるかわかりません。しかも、どれだけ上質な教育を行ったところで、一定の割合で悪口を言う人はいます、絶対になくなりません。それでは問題の解決にならないのです。
Twitterのトレンドに花さんの死と安倍首相への誹謗中傷が同時に挙がっていました。
1枚の風刺画として完成されていました。学ばない人は学ばないのです。
もちろん、今以上のリテラシー向上を促すことはやった方がいいと思いますが、ここではもっとすぐに抜本的な解決策を考えたいです。

抜本的な解決とはつまり、プラットフォームであるTwitterの仕組みを変えることです。
これはTwitter社の一存ですぐに変えられるのです。
変えないということは責任を『一切』感じていないと取れます。
これをみなさんは許せますか?

花さんを死に追いやった誹謗中傷、花さんの死による憶測、テレビ局へのバッシング、問題解決のため派生していく議論、これらすべてがTwitterの利潤になっています。
Twitterを利用すれば利用するほど、視聴すれば視聴するほど、儲かるのです。
死に追いやった土壌が死により、さらに肥えていくのです。
これほど皮肉なことはありません。

そこで、ふねいが考えた解決案を発表します。
現状Twitterの全アカウントが対等の関係性にあるという点を変え、
「ユーザー間でスコアリングできる」制度を設けるというものです。
今もツイートに対する「いいね」はありますが、それは高評価だけです。
そうではなく、Youtubeのシステムのように、低評価も顕在化させる仕組みをつくるのです。さらには、評価が低ければ低いほど、表記される文字が小さくなるようにすれば、よりわかりやすく信用度が可視化もできます。
ツイート毎に評価がつき、累計された評価がアカウントの総合評価になり、それが全アカウントから筒抜けの状態にしてしまうのです。

この制度の利点は、花さんのようにフォロワーをたくさん抱えTwitterに貢献しているアカウントと、フォロワーが0の悪口専用アカウントをタイムライン上で一目で知れる点です。
今までも、そのアカウントのプロフィール欄や今までのツイートを遡れば、信用度を測れましたが、そこの手間を省く新しいシステムになります。

これが、最善の策だとは決して思いませんが、いずれにせよ何らかのアクションを起こすことをTwitterには激しく求めます。


ちなみに、Twitterにおいて匿名性の排除というのは、FaceBookとの差別化が薄れ、魅力がなくなるため難しいと思います。匿名性が排除されたTwitterができたとして、少なくともふねいは利用しないです。


最後に

少し触れましたリテラシー向上に関して、ふねいの思いを書かせていただきます。
Note投稿のため、文章に向き合うことで、言葉という存在のすごさに気づかされております。

言葉は、頭の中で言葉にすると感情の整理や、自己分析ができます。
より自分というものがはっきりしていく感覚、すばらしいなと感じます。

しかし、言葉を発するということは、他人からすれば自分の中のものを吐き出す、
排泄行為に過ぎないとも感じました。
ここで気をつけなくてはいけないのは、
排泄には必ず責任が生じるということです。

言葉を発するということは、「形のない排泄」です。
頭の中で言葉にすることは自由ですが、一度世間の目に耳に触れてしまった途端、
それは排泄に変わるのです。

排泄とは、生きている以上いつまで経っても付きまとう不便極まりない存在です。
鼻水はティッシュがないと困ってしまい、
涙は誰にでも見せられたものではなく、
生理なんてものは扱いが非常にデリケートです。

言葉は受け取った人によって、形が変わります。
ある人にとっては耳障りな鼻水で、
ある人にとっては美しい涙で、
ある人にとっては自分の身には起こりえない得体の知れない生理になりうるのです。

誹謗中傷は、受け手にとって美しい涙になりますか?
そう捉えてほしくて発言したと思いますか?
ゲロを小便をぶっかけられたと感じるかもしれません。
もし、そう受け取っていたら、
もし、そのような事があなたの身に降りかかったら、
「死んでしまいたい」
そう思ってしまうかもしれませんよね?

言論の自由という言葉は立派ですが、少々生ぬるい乱暴な捉え方だと思います。
排泄にはルールとマナーがあり、それを守らない人は社会で生きていけません。
自分自身肝に銘じ、十分十分気をつけていきたいです。

今こそ新しい価値観が必要です。
コロナ禍において、ソーシャルディスタンスという考えが一般化されました。
花さんの死において、言葉という存在に対しても、自分のためにみんなのために社会がよりよくなる考えが広がることを望みます。

最後になってしまいましたが、木村花さん、心よりお悔やみ申し上げます。


今回は以上です。
次回は、「タレントとスターの違い」について書こうと思います。

※文章向上のため、予告なく加筆・修正する可能性がございます。ご了承ください。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。