見出し画像

【哲学対話】生まれることは幸せか?

永井玲衣さんの 「水中の哲学者たち」 を読んで
【哲学対話】というものがあることを知った。

楽しそうだなぁ、やりたいなぁ、と思って
実際に企画し、今回で4回目。
私としてはファシリテーターデビュー戦だ。

バチバチに緊張して
ひとりだけ内心パニックだったけれど、
優しい参加者の方たちに恵まれ
無事に対話を終えたので、書き残しておく。

毎週水曜日21:00~zoom開催。
随時参加者募集してます。


今回の問は
「生まれることは幸せか?」

個人的にやりたい問だったので、
企画者の権限を最大限に使って
このテーマにさせて貰った。

※今回やって気づいたけれど、この問には
大きくわけて2つの要素があった。
「生死について」
「幸せ(不幸せ)について」


今回は事前に問を発表してからの募集だったので
〝哲学対話やってみたい人〟ではなく
〝この問で対話したい人〟が参加している
印象を受けた。

こんな風に毎回問もメンバーも変わり、
雰囲気が固定化しないところも
すごく刺激的で面白い。

(固定化したとしても、それはそれで
面白そうだなあ、とも思う。
こんなん何やっても楽しい。)


対話が始まり参加者のみなさんから
沢山の意見が出る。

そもそも生まれたからには
「幸せ」にならないといけないのか?

幸せも不幸せも〝なるもの〟ではなく
〝感じるもの〟

意味とか理由とかは
つけなくてもいいんじゃないか

未来に可能性があることも
幸せにつながる


やるまでは気付かなかったけれど
対話を進めていくうちに、この問には
私の暴力的なまでの思い込みが反映されている
ということに気付く。

例えば、生=幸せであるべき、とか。
分からないのが怖いから
どんなことにも理由をつけたい、とか。


社会や人間としての本能に流されてたまるか!
自分の頭で考えるんだ!!
などと、自分が見えている世界は
解像度が高いと思い込んでいた。

深層心理では、
こんな風に流されまくっているのに。

思考停止するもんか、と意気込みつつも
思考を止めていたことにも気付かなかった。


対話は問を通して繰り広げられるので
私の立てた問は、いわば今回の対話の灯台。

ちょっと他の問に流れても
いつでも戻ってこれる場所だ。



そんな場所に私の深層心理が…!
ひゃぁあ〜(恥)

と胸の内でアワアワしながらも、
哲学対話の場は
すごく安全な場所だと感じてるから
実際はそんなに気にしていない。

何か私としては恥ずかしいことをやらかしても
対話に参加してくれている人達は、たぶん
「そっかそっか〜」と受け入れてくれる。
私もたぶんそうする。

答えがない問に向かう、対等・平等さと
対話というものの性質がそうさせるんだと思う。


自分も知らなかった自分の恥ずかしい部分と
顔を合わせ、心の中ではキャーキャー
言っていたけれど、こういう出会いって
一人で考えてるだけじゃ経験出来ない。

かの有名な哲学家・ソクラテスは
「哲学は対話の中でしか成立しえない」
的なことを言ったと本で読んだけれど、
あながち間違ってないのかもしれないな〜と
ひとりで頷く。

そんな哲学対話の場が、
改めて好きだなあと思った夜であった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?