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存在について

対話カフェ44回目は存在について対話しました。
前回は時間について話したのでハイデッガーの「存在と時間」にかこつけて存在について話しました。

最初は、無人島で、全く他の人と関わらずに亡くなった人は存在したもと言えるのか?という思考実験を考えてみました。(あずきがこの話題提供をしてくれました)
無人島で誰とも関わらずに亡くなったのであれば、社会的に存在しないという考えを持つ方もいれば、地球上に物質的に現存したのであれば存在したと言えるのではないか?という考え方、その間をとる方もいらっしゃいました。僕は社会的にその時は存在しなかったと言えるかもしれないけれど、例えば百年後に骨や遺物が見つかれば時を超えて存在したことになるので、どちらかというと存在と言いたいと思います(恐竜とかは存在したわけですし)

次に見えない物の存在について考えました。
特に例として挙がったのが「神」やそれに似た存在の「魂」や「霊」についても。聖書に詳しい方が記述とキリスト教での事例と、仏教での万物は流転するという存在し方について解説してくださいました。自然と宗教の話もできるいい対話の場になっておりうれしく思います。
そこから派生してQ 無くなった人は存在する?という問いについても話しました。魂や、記憶としての存在の仕方はあるのではないか?と思うので存在の仕方は多様だと思います。

次に、自分は確かに存在していると言えるのか?という問いについて投げてみました。「我考える故に我あり」的なことから存在すると思われる方が多かったです。逆に自分はもしかしたら存在しないのではないか?この世界はゴリラが見ている夢なのではないか?と思う方はなかなかいないようでした(自分は時たま考えてしまいます)



校則と高校生という存在についてですが、高校生とはこのような存在であるべきというものから規定されているが故に、高校生は皆同じように見え、無個性なように思うという意見がありました。(逆に大人のほうが一元的な存在に見えるという指摘もありました)
丁度今回は高校生の方も参加してくださっていたので、意見を聞いたところ、校則は破るのではなく徐々に議論して変えていく姿勢をとっているそうです。

最後に、己はどんな存在でありたいか?という問いを投げかけたところ、多くの人が他者に必要とされる存在でありたい。という意見が多く、周囲の中での存在感を重視しているそうです。僕もそれは必要だと思いますね。
でも個人的には、存在を規定するのはなんだか縛られている感覚があります。敢えて常に変わっていける存在になりたいと言いたいです。

そんなこんなで、第44回目の対話カフェでした~★

ちなみに実況中継をTwitterでされていたので、こちらも是非ご覧ください‼️


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