見出し画像

【ふなログ571】「現実を直視する」ことが苦手な人への処方箋


「現実を直視しなさい」
これは、とても大切な言葉です。


しかし、
直視してその受け容れることができる
現実であれば苦労しませんが、
直視してその受け容れることができない
現実であれば苦労と勇気が伴います。


今の自分にとって、
あまりにも受け容れ難い現実を知った時、
目を逸らして逃避するか?
それでも勇気を出して直視して受け容れるか?

そこに、その人の真価が問われます。

しかし、後者は簡単なことではありません。


例えば、
私にとって備わっていないもの
蓄えていないもの
足りないもの
を直視することは容易なことではなく、
とても辛いことでした。

それでも
「現実を直視する」ことは
大切であることは頭では理解しても、
直視できる程の勇気がなく、逃げ回ってしまう実態。

どうすれば良いか?
途方に暮れたことがありました。


私にとって
「欠損」していることを直視することは、
とても苦痛を伴うことで不快感も伴うことだった。

しかし、ここで
「欠損」ではなく「まだ残っている」ことを
直視しているのか?

他人と比べて欠けていても、
他人と比べて劣っていても、
他人と比べて少ないいても、
自分のものとして立派に残っているのではないかと。


なぜ、
今の自分に備わっているものを
信じてあげられないのかと。

僅かであっても、残っているのであれば、
それは立派な「手中の鳥」
幸せの青い鳥は、
遠くではなく実はすぐ近くに居る。


「ない」ものに目を向けるのではなく、
「ある」ものに目を向ける
ということが頭では分かっているつもりでも、
それがなかなか出来ないのは、
「今残っているもの」を「ある」ものとして
信じていないからです。


普段吸っている空気だって
当たり前に存在しているのではないのです。

普段飲んでいる水も同じ。食べ物も同じ。
全て当たり前ではない。
有り難く自分の手元にあるものです。


少ないもの、当たり前だと思っているもの
を「ある」と思うのを、
昔の私は
「そう思うことで自分を誤魔化しているのでは?」と
穿った見方をしていましたが、

「あるものに感謝し、それを信じ、そこから可能性を見つけていく」
という豊かな発想であることに、
当時の私は知る由もありませんでした。


今の状況が不遇であったとしても、
立派にご飯食べることが出来ていたら上出来ではないか。

「足るを知る」という言葉も、
「少ないと知って、そこに甘んじろ」と過去誤った解釈をしていていましたが、
それも大間違いではないか?と。

欲を持つな、ではなく
「今の自分が持っているものを知れ」というだけであって、
「ないものねだりをするな」ということです。


「今の自分が持っているもの」を知って
そこから建設的に欲を持てばいい。
それが、
本当に「現実を直視する」ことなんだと。


「現実を直視する」
ということを、「ない」ことを直視するというより、
「ある」ことを直視して受け容れることで、
具体的な打開策が生まれてくるのです。


なかなかこの事実を理解するまでに
時間がかかりましたが、

理解できてからは、
自分の中に不思議なエネルギーが湧いてくるから
不思議なものですね。


辛い時こそ「現実を直視する」というのは、
ネガティブな面だけでなくポジティブな面を直視しよう、
と解釈してみることがお勧め
です。


それでは、
今日も素敵な1日をお過ごしください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?