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【ふなログ624】春の訪れと「転機」/人を信じる強さ


春の香りを感じる空気になりました。

春の始まりは
色々な変化の予感と芽吹きを感じる頃ですが、

何かを失い、
そこから新しい出会いも始まる季節でもあり、
改めて、自分と向き合って信じて
新しく前を向いて歩く季節なのかもしれません。

暖かい「転機」の予感。


昨日の晩
久しぶりにウォーキングに。

約3kmだけですが、
少しづつ春の香りを感じる暖かさを感じる夜に、
散歩と瞑想を兼ねたウォーキングでした。


ウォーキング中、
色々なことが思い返されて、
とある人の幸せを念ぜずにおれませんでした。

具体的なことは書けませんが、
その日話してくれた時に、
真剣に向き合い、心が潰れそうになりながらも、
やることをやり、
必死に前を向こうとしていることを知りました。


人の死を通して、
改めてその人を取り囲む色々な「事実」が見えたり、
様々な「感情」が見えたり、その人の「生き様」が見えたり、
自分が「生きている」ということを改めて知る。
そして、自分にとって大切なことにも気付く。

私はただ話を聞くことしかできませんでしたが、
優しさに裏付けられた強さを持つその人にとって、
それで少しでも前を向く機会になれば、、
と思わずにおれませんでした。

春という季節を感じながらも。


「結局のところ私達は、
誰かを想起しながら生きています。
一人では生きていけない。」

と、前回の記事で書きました。
一人では生きていけない中でも、
大切な人を失う苦しさというのは、
計り知れないものがあります。


前回の記事では、
「仕事の役割」としての他者との繋がりについて
書きましたが、
それはいわゆる「有用性」の世界です。

だから、必要でなくなれば、
その繋がりや関係性は、
途端にあっけなく無に帰してしまいます。


しかし「有用性」を超えて繋がっている
関係性は尊く、
人生にとって大きな深い「根」を下すことになります。

もちろん、
すべての人とそんな関係性を築くことはできません。


築くことはできませんが、
もし築くことができれば、それは生きる上で
力強い「芯」として残り続けることになります。
築くのではなく、感じるだけでもそれでいい。


私が過去数年前に、
FXでしくじって借金を背負った時に感じた孤独。

しかし、そこから何とか這い上がって
何とか生きているのは、
家族を始め、
時間と場所を超えて囲んでいる人たちとの繋がりを
感じているからこそです。

借金で命を断つ人のほとんどは、
「孤独に耐えられなかったから」
という話も聞いたこともあります。


孤独というものは、
自ら心を閉ざしていることにも
起因しているのかもしれません。
自分のことを信じられない、他人を信じられない。
だから孤独になる。

しかし、
見知らぬ人から傘を貸してくれるようなことだけでも、
人を信じてみようという気持ちになる。


心を開くことは実は難しい。
人を信じることも実は難しい。
人というのは
不完全で美しさも醜さも内包しているので。

しかし
仕事という「有用性」の世界で
繋がっている関係性であっても、
繋がっている人は、血が通った生身の人間です。

そう思えば、
「有用性」を超えて何かを届けてみよう、
という気持ちにもなる。


巡り巡って、それが副産物として、
「有用性」という価値提供として仕事が成り立っていくのが、
理想ですが、
やはり「有用性」も重要であることも事実です。


しかし、、
その奥にある血が通っている生身の人間を知らずにして、
仕事は成り立たないし、人も信じることもできない。

人を信じることができれば、
しっかりとした仕事を築くことができるのではないか?

AIがこれから仕事の面で
幅を効かせてくる時代に突入しますが、

「有用性」としての機能や賢さでは群を抜くことはできても、
不完全な人間に対しては、
どこまで行っても所詮マネ事止まりです。


感傷的なくせに理屈も
まとまりのない文章になってしまいましたが、
ある人の訃報を知って話を聞き、

改めて人との繋がりに想いをいたし、
「有用性」を超えた関係の大切さ、
人を信じる尊さを振り返っていました。


今の自分に出来ることは何か?
それは誰が求めているのか?

また「有用性」の世界である仕事について
考えながら生きていくことに戻るのですが、

その「芯」に
「人を信じる強さ」があることを
念じて生きていくのみです。


それでは、
今日も素敵な1日をお過ごしください。

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