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「処刑されなかったマリー・アントワネット」第3章 ある人にとって当たり前の事は、別の誰かにとっては奇跡である。 (その1)

 受験勉強は、子供にその年齢には不適切な程のストレスを与える。学歴社会は、子供から純粋に子供らしく過ごせる時間を奪っている。私は幼稚園受験、小学校受験、中学受験、大学受験、まさにお受験というお受験を経験した。そんな環境もあってか、既に小学生の時点で、成績は良くなければならない、勉強は今からしておかなければならない、そうでなければ、将来大人になった時に苦労する、特に経済的な面で、とテストで悪い点をとることを恐れていた。小学校高学年になると、今まで通っていた、勉強に関する習い事以外は自分から、受験のために辞める、と言った。新体操教室で仲良くしていた同級生たちは、なんでこんなに楽しいのに辞めちゃうの?と聞いてきた。私は新体操は楽しくなかったし、それに、そんな事よりも受験が大事だった。むしろ、勉強に打ち込むことよりも、新体操を選ぶ友達が理解出来なかった。勉強しておかなきゃ、大変なことになるのに、なんで新体操教室なんか続けるの?と、正直、彼女たちは馬鹿なんじゃないか、とまで思った。 もちろん、学校でいつも成績が悪い子の事も、私は少し見下していた。そんな点数を取って、恥ずかしくないのか、その点数で、将来苦労するのに、なんで勉強しないの? これが11歳、12歳の私が純粋に思っていた事だった。

 進学校では、成績が学校での立場を決める。かっこいい、可愛い、面白い、明るい。小学生であればそういった特徴は学校では大きく本人に有利に働くことだろう。もしかしたら、子供であろうと、学校以外でも役に立った事なのかもしれない。周りから認められて、褒められたのかもしれない。でも、私が生きていた世界は規律が厳しく、成績重視の学校、本格的な習い事、勉強や習い事に励むよう躾けられる家。その3つだけが、当時の私の世界を構成していた。それ以外の世界を知らなかったし、知る機会もなかった。ただ、勉強さえ黙ってしていれば、与えられた宿題や、習い事の練習をこなしてさえいれば、何も怒られることはない、私の知る世界では立場が確保され、存在することを認められ、将来の事も心配しなくていい。それ以外の基準で人間が評価される世界が外には広々と確かにあったのに、私はそれには全く触れる事はなかった。

 私にとってこの環境は、10年もしないうちに苦しい記憶のトラウマと化すが、この当時の私にとってはその世界が全てであり、それ以外の基準が存在するとは思いもよらない事で、子供の私にとっては、当たり前の生活だった。しかし、他の学校の子もいる習い事や塾に行くと、恵まれてるし、それは特別な事の様に大人たちに言われた。

 

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