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「処刑されなかったマリー・アントワネット」第1章〜子供時代を失った子供〜

 嫌だ、嫌だ、嫌だ、行きたくない、ピアノなんか、バレエなんか、英会話なんか、塾なんか、、、習い事へ私を連れて行く母の車の中で、毎日のように感じる閉塞感。車という狭いスペースに閉じ込められ、怖い場所へ、嫌な場所へ、どんどん近づいていく。今から、また、いつものように苦しい時間が始まる。今日も、明日も、明後日も、、、これは繰り返される。公園で遊びたい、テレビ見たい、ゲームしたい!

 でも、私は5歳の頃から多すぎる習い事で多忙だった。幼少期は、家に居て好きな事を気ままにしたり、家族と過ごす時間は、ほとんどなかった。幼稚園が終わったら、どこか習い事へ行き、もしくはどこかの施設に預けられた。幼稚園、小学校時代、私にはやりたい事をやる時間がなかった。遊ぶ時間がなかった。世間のアンケートで、「過去に戻ることが可能なら、いつに戻る?」というのはよく見る。だいたい、ほとんどの人が、「子供時代」や、「小学生時代」を選択する。理由は、何も考えずに好きに遊んでいたからだ。23歳の時の私は、自分の人生のどの時期にも、戻りたくなかった。もちろん、その当時も、23歳の私にとっては人生は苦痛に満ちていた。

 18歳の時、近所の50代くらいのマダムたちが集まっているところに私は遭遇した。大学生になって、お洒落をしていた私に、皆んなが「18歳か、これから楽しいことが沢山やね、1番いい時期やね」と言った。20歳の時、大学の講義終わり、大学の前のバス停でバスを待っていると、近くで同じ大学の女子たちが大声ではしゃいでいた。一緒にバスを待っていたマダムたちは、「今が1番楽しい時やねぇ、いいわねぇ」と言った。わからない、、、全くわからない。18歳になっても、私は幼少期に引き続き、まだ苦しんでいたし、20歳の時に聞いた、「今が1番楽しい時期」という言葉も意味不明だった。私は、生まれてきてから一度も幸せだったことはないし、「いい時期、楽しい時期」なんて、来たことがない。まあ、とりあえず、私はそんな鬱々とした人生を歩み続けていた。話を幼少期に戻そう。それが、この章のテーマなのだから。もう少し成長してからの苦しみのお話は、また後にとっておこう。

 子供の習い事というのは、子供にとっては恐怖でしかない場合もある。習い事、レッスンの先生は非常に厳しく、子供に辛く当たり、時には怒鳴る。幼少期の習い事で何度、大きな怒鳴り声が怖くて泣いたことか。これはあくまで私の推測に過ぎないが、子供に習い事をさせているのは、大抵の場合は親であり、もちろんレッスン料金も親が払う。そのため、子供の習い事というのは、親に成果が出ているように見せる必要があり、子供には、必死に上達するよう厳しくする。親に月謝を支払わせるように仕向けるには、そうするしかないシステムなのだろう。子供が楽しむような習い事ならそのシステムは成り立たないが、私が通っていた習い事は、大会出場や資格取得などを目指していたため、親が子供に英才教育として受けさせるようなものだった。私はエレクトーンの先生が怖かった。週に一度、エレクトーンのレッスンはあったが、その曜日が来るのが怖くて怖くて、ビルの2階にある教室へ続く階段を登る時は、今日もまた、怒られるのだろうか、怖い、、、と、震えていた。そして、レッスンが終わると、よし、あと1週間は、ここに来なくていいんだ、と一瞬だけ安堵した。

 幼稚園、小学校と、私は大体、同時に10個の習い事を抱えていた。それと同時に、私が通っていた学校は地元では非常に有名な私立のお嬢様、おぼっちゃま学校だった。幼稚園受験をし、さらに小学校受験をし、その後は中学受験をし、中高一貫校の大学受験に特化した、進学校へ通う。幼稚園から、大学まである、私立の、いわゆるエスカレーター式の学校だった。大学は、優秀な生徒であれば、有名大学を目指し、都市部の大学、もしくは、地元の医学部へ進学する子が多かった。幼稚園から、高校まで私はその系列の学校に通っていた。だいたい、地元で通ってる学校名を言うと、「うわ、でた、あそこか、お金持ちだねぇ」と、年齢問わず、誰にでも言われた。また、制服だけで、「あ、あそこの学校の子だ、、、」と、ひそひそ言われた。学校内では、開業医や、社長の子供がとにかく多かった。

 幼稚園では、茶道の時間があり、礼儀作法を教えられ、小学校受験対策の授業もあった。小学校では、5.6年生になると、本格的に中学受験対策が始まった。小学生ながら、その宿題の量は、低学年の時から多く、同時に本格的な習い事を同時に10個抱えていた私は、目の回るような忙しさだった。小学校が終わり、その後すぐ歩いてそろばん教室に行き、それが終わる頃に母が迎えにきて、その車で新体操教室に向かった。家に帰って来るのは10時ごろで、それから眠い目を擦りながら明日の学校の宿題をした。

 なぜ、両親が、特に母が、私の教育方針を決めていたようだが、ここまで私に英才教育をびっしり詰め込んでさせるのか、皆様は疑問にお思いになるだろう。成長して、この時期のことを苦しかった、なぜ、こんなに習い事ばかりさせたのか、と聞いたら、両親共に、非常に仕事が忙しく、幼い私を家に1人にずっとしておくわけにもいかず、私を預けるという意味もあり、また、私の将来のことを考え、優秀に育って欲しいという思いが強くあったからだという。

 私は多すぎる宿題によって、まだ、わずか9歳、10歳でありながら、忙殺され、その思考回路は異常なものになっていった。常にスケジュールがぱんぱんで、空き時間、休む時間などなく、ちょっとでも予定が狂えば、私はパニックになった。例えば、塾の宿題がある週はいつもより多くなったり、エレクトーン、新体操の大会などがあったりすると、他の習い事の課題や、学校の宿題をする時間が少なくなり、私は明日、課題や宿題をやらないまま、習い事や、学校に行かなければならないのだろうか、とパニックになり、泣きじゃくった。課題や宿題は、私にとって、絶対に完璧にやらなければいけないノルマだった。次の日、やらずに行って、先生に怒られるのがあまりにも怖かった。思えば、幼少期の私は、恐怖に駆られ、一心不乱に課題や宿題をこなし、睡眠時間を削ることは当たり前だった。熱が出て、学校を休んだ日でさえも、今日はどんな宿題が出たのだろう、明日やっていかなければ、怒られる、宿題しなきゃ、と机に向かっていた。その私を母が見つけ、びっくりし、今日は寝てなさい、と言われたのをよく覚えている。

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