舟山 華織
世界が戦火に巻き込まれた時代、日本を守り抜いてくれた英霊たちのお手紙をまとめています。
日本の歴史を中心に、教養が身につく素敵なお話をまとめています。
昭和17年5月8日 珊瑚海にて戦死 甲飛三期生 滋賀県出身 19歳 拝啓 内地は、桜の候も、早や終った頃でしょう。 戦争中のこと故、花見どころではなかったでしょう。 小生このたび、また灼熱の赤道直下に暑さをおして御奉公致しております。 今度は海の上ばかりですが、南国の生活も、また情緒的です。 朝夕はやはり涼しく、海の水は澄み渡り、夜ともなれば南十字星が、さんとして水平線の彼方に輝いています。 思いに耽ると、故郷の山河が瞼に浮かびます。 町の様子は如何に、わが父母は如何に
平知盛は、平氏の総帥・平清盛の四男です。 清盛が病没してのち、平氏の大将として必死になって源氏と戦ったのですが、時の勢いはどうすることもできず、遂に源氏に敗れて都落ちすることになりました。 その都落ちする時のお話です。 平知盛は、多くの部下とともに都をあとにして西に向かったのですが、その途中で偶々大番役(宮廷の警固を務める地方武士)と出会いました。 都落ちの途中とは言っても、平氏の兵にしてみれば、大番役は一応敵です。 そしてこちらは集団です。 兵たちは「斬り捨てましょう」
昭和20年6月16日 沖縄にて戦死 東京都出身 36歳 お手紙ありがとう。 東京も梅雨がもう少しであけるそうですが、防空壕の中に水がたまってさぞ困るでしょう。 防空壕の上の木にもやがて蝉がみんみん鳴くことでしょう。 こうして手紙をかきながら眼をつぶりますと、そのときの光景が見えるようです。 もう今頃は一学期も終わりに近づいて水泳のできる頃になりましたが、お父さんが居れば多摩川へでも行って泳ぎを教えてあげるのですが、満洲にいてはそれもできず残念ですね。 お手紙を見ています
山中鹿之介は、戦国時代も終わりに近づいた頃、中国地方で毛利元就と死闘を繰り返していた尼子家の家臣です。 結局、尼子家は毛利元就に滅ぼされてしまうのですが、その滅ぼされた尼子家の再興に奔走、苦闘したのが山中鹿之介です。 その山中鹿之介が、まだ少年だった頃のお話です。 鹿之介の母は、幼い息子の鹿之介が仲間たちと戦ごっこをしている様子を見て激しく怒りました。 「戦ごっこをするのはよろしい。でも、仲間たちを尼子方と敵方に分けたのは、何故ですか!」 「・・・・・・」 「お前は、尼
昭和18年8月6日 ソロモン諸島コロンバカラ島 西北方約100キロメートル海上にて戦死 香川県 綾歌郡 綾川町 陶 出身 29歳 こくみんがくかうの いちねんせい げんきで べんきやう するんだよ みなみのうみは きれいです さんごのはやしが きれいだよ こかげは すずしいよ つばめが すいすい とんでゆく よしこが がくかうへ ゆくころは つばめが ないちへ かへるだろ ちいさい のぶこや たかよしと なかよく あそんで やるんだよ よしこさんへ
加藤嘉明は、豊臣秀吉に仕え「賤ヶ岳の合戦」では勝利の立役者となった七本槍の一人として活躍しました。 秀吉の死後、石田三成と対立して徳川家康に仕え、関ヶ原の合戦では東軍に加わって大活躍。 その軍功により伊予国(愛媛県)の松山20万石を与えられ、のちに会津(福島県)40万石の大大名となった人物です。 その嘉明が若い頃のお話です。 嘉明は、合戦の時を考えて倹約に励み、金銀を蓄えていました。 合戦となれば戦費が必要です。 金銀ばかりではなく、南京の陶器を好み、蒐集し秘蔵していまし
神風特別攻撃隊 大和隊 昭和19年10月26日 フィリピン沖にて戦死 東京都 出身 25歳 愛児に宛てた手紙 素子、素子は私の顔をよく見て笑いましたよ。 私の腕の中で眠りもしたし、またお風呂に入ったこともありました。 素子が大きくなって私のことが知りたい時は、お前のお母さん、佳代伯母様に私の事をよくお聴きなさい。 私の写真帳もお前の為に家に残してあります。 素子という名前は私がつけたのです。 素直な、心の優しい、思いやりの深い人になるようにと思って、お父様が考えたのです