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『かがみの孤城』“いじめ”について(回想)

映画『かがみの孤城』が金曜ロードショーにより地上波初放送されて大きな話題になりました(Xでトレンド入りするほどに)。私も大好きな作品なので、放送中から賛否を含め様々な感想ポストを読んで楽しみました。
自分でも多くのポストをしたりFF(相互フォロワー)さんと意見交換したりして来たのですが、伊田先生に記事を書いてみないかと言われたので書きます。

©️『かがみの孤城』制作委員会

※この記事はいわゆる“いじめ”についての記事とします。と言っても“いじめ対策”への意見など全く無い、個人的な回想を交えた雑感ですので、そうしたものをお望みならご希望には添えないです。
※今作は言うまでもなく辻村深月さんの同名の原作小説を原敬一監督によりアニメ映画化したもの、他に武富智さんによる漫画版もあり、それらを総合的に扱います。


◉はじめに

『かがみの孤城』シリーズでは、実は“いじめ”と決めつけた表現は使われておらず、それは原作者の辻村深月さんの意向なんですね。

実際、城に招かれた中学生たちが不登校になっていた事情は様々(不登校になってはいない水守理音ひとりを除く)。政宗青澄は自分が蒔いた種による仲間はずれとも言えますし、嬉野遥も本人が言っているように“いじめ”のイメージとはやや違います。

「何が“いじめ”なのか?」といったような大文字の語りが不要なわけではないのですが、かと言って定義付けを先に考えてそれに当てはまるか当てはまらないかということに何ほどの意味があるわけでもない(それをやるとかえって良くない)。

そういう意味で小文字の語りもまた必要になるのかなと。辻村さんが小説という形で多くの文字数を使い表現し、武富さんの漫画では絵でそれを踏襲した。原監督の映画では時間の尺の問題があるから、やはり“いじめ”という表現を避けつつ要点を絞って表現されることになりました。

また扱われているのは“学校に通えなかった”であって、必ずしも“いじめ”ではありません。登場人物の長久昴と井上晶子はいじめられているわけではなかった。だから広く“不登校”という視点での作品になってます。

©️『かがみの孤城』制作委員会

まして城を作って招いたオオカミ様こと水守実生(みお)にいたっては不登校ですらありませんでした。病気になり小学校にも通えず中学への入学直前に亡くなります。
彼女は影の主人公とも言え、映画版では実生に始まり実生に終わる。そのことによって、彼女の存在を特に強調したものとも言えるかと感じています。

なので私が“いじめ”の観点からこの記事を書く場合、今作への大文字語りとしてなら不適切になります。ですがあえてその視点で書いてみたいと思った理由としては、私自身がちょうど安西こころの年頃にいじめられた経験があるからです。

大文字語りではなく、極私的な小文字語りならいいんじゃないかな、と。だからこの件での登場人物への想いも交えつつ、ただの回想になるんですが、自分がされたことを具体的に列挙するのは避けます。そうした事例は読んでいて気分が悪くなる人もいるでしょうからね。

©️『かがみの孤城』制作委員会

◉ちょっとだけ一般論

様々な感想ポストの中に、辛くて見続けられなかった、トラウマが蘇って途中で見るのをやめた、そういうものも多数ありました。最後まで見たけど不登校だった自分には腹が立ったというのも。

それはわかるような気がします。今作シリーズが大好きな私にしても、それはもうあの頃のトラウマがすっかり消えて、大人になって随分と歳月を経たからでもあろうかと。
いじめを受けている最中、あるいはいじめられなくなってからもトラウマが残っていた時期、その“あの頃の俺”が今作に出会ってもブン投げていたでしょう。

それは容易に想像がつきますが、それも“あの頃の俺”の考え方や感じ方がわかっているからであって、この辺は似たような体験があったとしても人によって異なるはず。
実際、いじめられ体験者・不登校経験者の感想を見ていてもそこはまちまちですね。トラウマが濃く残っていても、この作品が大好きな人もいますし。

そういったこともあり「いま辛い目にあっている人にこそ接して欲しい作品」という推奨にはちょっと「いや、そういう意味では誰にでもとは言えないんじゃ」とも感じてはいるんですよ。

いじめたこともいじめられたこともないが感動した、というのもよくわかります。実は一般向けの作品だと私には思えているので。ですがちょっとそこ(今いじめにあってるとか不登校になってる人に奨められるか)は慎重になった方がいいかもですね。

同じような体験があるからこそ推薦したい、そういう意見もあります。その気持ちもわかるんですが、だけどやはりその相手の人にもよるかな。置かれている/いた境遇の違い、その子その人の性格や気性、現時点での感じ方や考え方、好みの違いはとても大きいでしょうから。

©️『かがみの孤城』制作委員会

◉“いじめ”の怖さ

というわけで、やや一般論めいた話はこの辺にして、個人的な体験談中心の雑談にしようと思います。作品内の登場人物の誰ひとり同じ境遇でないし考え方も時代も違う。
ならば自分もまたひとりの劇外登場人物として述懐する、その方が今作に合ってるはずと思えるので。

私の場合は小6の途中から中1の途中までの、約1年間でした。こころの場合と違って真田美織のような主導者がいたわけでもなく、なんとなくいつの間にか集中砲火を浴びるようになり、そしていつの間にか終わりました。始まりも終わりも、特にこれといったきっかけは無かったかな。

いじめに遭う子って、内気だとか今の言い方だと(好きな言葉ではないですが)陰キャだとか、別にそういうのは関係無いですね。私だって幼少の頃から内気では全くないし、むしろ勝気です。根に攻撃性がある気性でもあって。

いじめの何が怖いって、集団でやられ続けることにより全く萎縮してしまい、自尊心もずたずたになり、自己認知も歪むし、本来の自分ではなくなってしまう。そのことを挙げてもいいんじゃないかなと私は思ってます。もちろん、ほかにもいろいろあるでしょうけど。

私は小学校中学年の頃はむしろ、クラスの人気者のひとりでした。喧嘩は別に強くもないけど特に弱くもなかったんですよ。でも一対多では何もできなくなる。私を攻撃していた子らも、1対1なら取っ組み合いの喧嘩でも口喧嘩でも私が負けるとは思えない子らが多かったです。だからこそ集団攻撃だったんだと思いますけど。

©️辻村深月原作/武富智作画『かがみの孤城』より

毎日毎日、今日は何をされるのかと怯えながら登校する。当時は学校へはとにかく通うべきものでした。なので登校拒否とか不登校とかは念頭に浮かばず。そしてこころもそうでしたが、私も親に相談しようとしない。彼女は私と違って、言いたいけど言えない感じでしたが。

私はとにかく惨めで(そこは同じかも?)、そして何より恥ずかしくて仕方なかったからなんですよ。いじめられているというのが凄く恥に思える。まぁ屈辱ですし恥辱なのはそうなんですが。

でも相手が与えてくる辱しめでこそあれ、自分の恥かのように思う必要など全く無いんですけどね。恥ずかしいのはいじめてる方なんだし。でも萎縮しきっているから、そういう発想が出ない。

この“いじめられていた”ということが隠しておくべき恥に感じられる心理は、いじめが終わった中1の途中からも残り続け、高校まで続いてました。「あいつ今でこそあんなだけど中1の頃いじめられてたんだぜ」と言われやしないか。

そういう感覚もなくなり「あぁいじめと言えば、俺もいじめを受けたことあるよ」と平気で言えるようになったのは大学生からでした。

©️『かがみの孤城』制作委員会

◉新しい環境

もし私個人の内部に何らかのきっかけのようなものがあったとすれば、新設校に小5で編入されたこと。周囲の人員がガラッと変わったことは大きかったです。特に仲の良かった友人は全て元の小学校に残留。新設校でまた友人でも作れば話が変わってたかもですが。

お調子者で活発ではあっても、あまり積極的に自分から友人を作らない性格なのも影響しましたかね。だんだん目の敵にされるように。「調子に乗りやがって」的なね、その種の言われ方をされ出したのは覚えてます。

自分がお調子者だと自覚できてればまだ良かったのかもですが、その自覚も無かったですね。俺の何が調子に乗ってると言うんだろう?と困惑してるうちに孤立しました。政宗と少し似た面があると言えなくもないのかも(ホラを吹いたりはしませんでしたが)。

中学に上がって既設校からまた合流した、かつての同級生のひとりから「おまえ何でいじめられてるの?」と言われたのは印象的に残ってます。でもそう言われても恥ずかしいだけで、力無い笑みを返すのが精一杯。

こうした点もこころとは違いますね。彼女は中学の新しい人員に馴染めなかったわけではないので。なので彼女は転校の相談の時にも、そのように思われることへ気持ちの中で反発していました。

「学校が全てではない」というのも全く同感なんですが、もう少し言うとすれば学校どころか「学級が全て」になってしまう。その学級によって雰囲気がまるで違ったりしますからね。他のクラスって異世界とでも言いますか。

私の場合だと中2のクラスは最高でした。途中でわかったのですが、不良グループ男女の上位メンバーほか問題児を集めたクラスが2つあって、そのうちのひとつ。こっちは主に明るくて不公平さが大嫌いな連中が多かった。

昴って映画ではわからなかったけど実はヤンキーなんです。
彼は両親に捨てられて茨城から引っ越して来て。
それ以降は学校へは不登校でしたが、次に書くような、
根が優しいヤンキーだったんだろうなと感じてます。

◉問題児

そのせいもあり、私も人が変わったように(というか本来の地が出て)お調子者に戻り授業中も騒がしくなり、気に入らない教師には率先して反抗し、ヤンキーほか他の級友も騒然となり…結果としてクラスは学級崩壊しました。

学校全体が荒れていて、中でも特に荒れたクラスになったのですが、そりゃそういう学級編成にした学校側の問題でもありまして。でもすごく和気あいあいとした楽しいクラスでもありましたよ。

その辺はたまたま最上位ヤンキーらの好むところでもあったんですね、当然ヤンキーにもいろんなタイプがいますから。分け隔てとか阻害や弱い者いじめとかは全く無い。
だから団結力はものすごくて、学年のクラスマッチ(球技)とか合唱コンクールとかあると優勝するのはうちの学級。

真田美織がもし中2で私らのあのクラスに居たら…。たぶんスケバンの子らに体育館の裏とかに呼び出されて「あんたそれでいいと思ってるの?」くらいに軽く吊し上げられてしまうように思えます。だからといって除け者にはしないけれど。そんなクラスでした。

この中2の時はただの幸運な巡り合わせではあるんです。別に私への学校側の配慮とかではないので。でもそれが私にはものすごく幸いな結果だったと。その一方でこうしたことは私の自我形成に影響し、どっちが本当の自分なのかわからなくなって。

毎日ビクビクしていた弱々しいのが本当の自分なのか、はっちゃけてさんざん悪さを働いていたのが本当の自分なのか。この分裂が解消されるのはずっと後のこと。そうした気の強さと弱さの極端な二面性が、自分の中に常にあるのだ、ということですが。

こころも転校するのがひとつの方策であったのは確かですが、同じ学校で学年が変わり、全く別の雰囲気のクラスでリスタート…というのも大いにアリなんだと思います。
喜多島先生の尽力もあり、役所も学校側も対策をしてくれるようなのも大きいですね。※それにこころなら学級崩壊の一因になったりやしないでしょう(理音もいるしね!)。

©️辻村深月原作/武富智作画『かがみの孤城』より

◉転校生

新しい環境で、転校により学校そのものが変わると言えば政宗や嬉野でしょうが、むしろ私は東条萌を思い浮かべるのです。政宗はもう、同じ失敗はしないでしょうね。その点は萌も同じですが、彼女の1年の時の失敗を考える時、私には他人事とも思えないことがあるのです。

実は私もいじめの加害者に危うくなりかけたことがあるんですよ。私へのいじめが中1の時に自然消滅したと書きましたが、その理由のひとつが、いじめの対象が別の男子に変わったことも一因。

その際に、ものすごくホッとしたのを覚えています。地獄のような日々から解放されて。だけどそこで、新しい標的となった子を庇うなど到底できない。いやむしろ歓迎してしまい、このまま標的がその子であればいいと思ってしまったのです。

だから自分もその子へのいじめに参加するようになったのですが、クラスの男子のひとりがポソっと呟くのが聞こえて来ました。「あいつ自分がいじめられなくなったら、別の奴をいじめるんや」…もうその場から消えてしまいたい、そんな気が押し寄せてきたのを、その後もずっと覚えています。何という恥ずかしい奴なんだ俺は。

©️『かがみの孤城』制作委員会

萌は転校して来て知っている人が誰も居ない中で、たまたま近所の子でもあるこころと仲良くなった。でもこの子と仲良くしていると自分まで巻き込まれてしまう、そう知った時点で阻害に加担してしまう。

このことを責める気には私はなれず。でも後に自分もまた標的になったことで、思い知ることになったのでしょう。自分が何をしてしまったかということに。その恥ずかしいことそのものを擁護するわけではないけど、私にそれを非難する資格も無いし(同じ中1という年齢で)。

結果論にはなってしまうけど、この件はお互い早目に気付けて良かったよねと感じます。これに限らず人はその人生の中で何やかんや失敗します。他人事みたいに言ってますが、もちろん私も何度も(性懲りも無く)。

今作で何もやらかしてないのは理音とこころだけですが、この2人だってそのうち何かやらかしますよ。早いうちからがいいんで、できれば思春期がいいんですけどね。

©️『かがみの孤城』制作委員会

◉勧善懲悪

今作への批判の中に「何の解決にもなっていない」というのがあります。いろんな感想が出て当然とはいえ、これには同意できないですね。これについては原監督自身の反論があるので私見の前にご紹介しておきましょう。

個人的には原監督の意見に同感です。またそれとは別に、私見もあります。美織たちや、晶子の義父が罰せられるところを見たかったという感情そのものは実際のところわからんじゃないです。

勧善懲悪、私も好きですよ。そういう作品も娯楽ならではの快感だし、なかなかそうはいかないこともある実社会においても、出来るだけそれはそうであって欲しいし。
だけど、この作品もそうであって欲しかったとは思えず。そういう作品じゃないし、と。

晶子の義父はまた別なので置いときます(いじめの暴力とは全く別種の暴力なので)。美織らがきっちり罰させられたり酷い目に遭ったりして終わるなら、むしろ私は白けてしまったでしょう。原さんの言うように“嘘くさい”からというのもあるんですが。

例えばいま大ヒット中の『葬送のフリーレン』で言うと、極悪のアウラ様は最初から、やられ役・わからせられ役なのは分かりきってるので自害させられてスカッとするし、ファンアートで可愛いがられておもちゃにされて、あれでいいんですよ。

実は怖がりアウラ様の短い短い全盛期(有頂天)

だけど今作は勧善懲悪がまるで似合わない作品なので。美織がきっちり罰させられたり酷い目に遭わせられてるのを見たいかと問われたら、少なくとも私は見たくない。

彼女がこころを相手にやらかしたことを許容する気は全く無いんですよ。だけど自分が何をやらかしたのか、それは彼女自身が思い知らないと本人がこの先どうにもなりません。その限りにおいては萌の言うとおりではあるんです。

©️『かがみの孤城』制作委員会

◉幼稚

彼女らは成績も悪いそうですが、少なくとも美織は勉強はできなくても頭が悪いわけではない。どうやったらクラスの雰囲気を掌握できるか、恋敵と決めつけた相手を心理的に潰せるのかわかってるし、どう振る舞ったら大人の男に可愛く思わせられるかもわかってる。お馬鹿さんにこれはできない。

だから地頭はいいはずとも言えるんですが、それを悪知恵や悪巧みにしか使ってないですね。しかも恋愛脳な割にはまだ恋愛の暗黒面がわかってないと見えて(当たり前)。

付き合いだした男に、かつてその男が好きだった女へ罵声を浴びせるようなことを言わせてしまう。あれ、そういう男は次の恋愛で今度は平気で自分を攻撃してくるかもってことまではわかってない。

安西宅襲撃事件も、彼女が煽動したのかまではわからないですよ。身勝手な被害者意識に酔ってる美織に、取り巻き連中がそれこそ気持ちを忖度して本人を煽った可能性も無いわけじゃ無し。

集団心理って暴力に向かうと怖いですからね、煽り煽られどんどんエスカレートするから。「殺されるかと思った」と、こころが言うのは大袈裟でも何でもない。大事に至らなくて良かったのはこころだけじゃない、美織ら襲撃勢もです。

©️『かがみの孤城』制作委員会

◉転落

実際には、美織は萌が言うように「ずっとあのまま」かどうかはわからないです。学年が上がって取り巻きらも離れてしまい、こころの件で周囲から「あの子よあの子」みたいに言われ孤立するかもしれないし。

自分に睨まれたらどうなるかわかってるのか⁈的に振る舞う人、大人にもあれに似た感じの奴はいますから、大人が今作を鑑賞するとついそうした奴らと重ねるのもわかるんです。でも彼女は小学7年生かよと言いたくなるほど幼な過ぎるから、比べようもないように私には思えます。

人望ゆえの指導力があってリーダー格にいるわけじゃないし、恐怖心を操って人心操作をやるならもっと本格的に人というものを己も含めて知らないと。ていうかあれ、自分よりずっと年上の同性に通用しますかね。しないと思うんですが。

学年が上がって取り巻き連中らも、美織から離されたら、かえってホッとしそうな気もします。取り巻き連中の中には美織を都合よく使ってる場合だってあり得るでしょう。彼女に力がまだあると思ってついて来る子も居ないじゃないかもです。でもそんなのについて来られても、それを頼みに思ったところで。

要するに彼女も人として成長しないと、あのままじゃ先が無いんですよ。周囲の子らはどんどん思春期を成長して行くのに。あのやり方では幼稚すぎて、あっという間に通用しなくなる。一部で通用するとしても中学まででしょう。どんな高校でどうする気なのか。

作品の中で彼女がそういう目に遭うとこまで見たいとは、私は感じなかったです。そんなのを見せられるより、想像の余地を残してくれて良かったですよ。その方が救いもあるし。美織が自分を見つめ直すだけの時間はこれから充分にあるんだし。

©️『かがみの孤城』制作委員会
※スタッフ陣が大敗してますな(原監督は自分で入れた1票だけ)

◉いじめた側の未来

美織が自分のあり方をちゃんと考えるなら、子どもながらに取り返しのつかないことをしてしまったこと、それはどうにも消えずに自分の中で残り続けることになるんです。でもそこから逃げずに自分への戒めや重しにすることだって出来ないことじゃない。それはそれで辛いことですが。

そう言い切るのは、実際にそれをやった男を知ってるからです。彼は中1の時に私をいじめたうちの1人です。本当は正義感が強くて弱者への迫害とか大嫌いな癖に。厨二病ってやつで、中2以降はヒトラーにかぶれていたこともありました。

そうやって自己正当化してたんだろうなと、後に彼自身の言動や人生選択から察することができましたが。それぞれ別の高校に行った後で東京の大学に進学し、何かの機会に再会してからはまた交流があったからなんですけど。

彼は中1になる時に、先述のとはまた別の校区の小学校から来て私と同じクラスになったんですが、実は最初に仲良くなったのは私でした。お互い顕微鏡があるから微生物を観察しようぜ!それで盛り上がっていました。

©️『かがみの孤城』制作委員会

ところが私が小学校でいじめられていたと知ってから、急に避け出して、むしろ率先していじめる側の先頭に回った経緯があります。ヤバいと思ったんでしょうね。萌を見ていて、ふと私と似た面も彼と似た面も同時に感じられる。そんな風に久しぶりに彼のことを想い出せる。

それが何か不思議なような、そんな気もします。あの頃のこと、中1の時のことは、彼の人生の中でごく短期間のことではあるんですが、彼の性格や志向を思えば辛い記憶だと思いますよ、特にどうとも思ってない私よりはずっと。

美織は彼とは性格から動機から、したことまで何もかもが違いはするんですけどね。彼がしたのは萌よりひどいけど美織ほどひどくはないあたりの感じ。

そういう立て直しが出来るのは彼だけではないんだし、美織の未来もまたそうであるように願いたい。そう想像してみた方が、余韻として後味がいいように感じています。

©️辻村深月原作/武富智作画『かがみの孤城』より
コマに映っているのは手紙を書いてる真田美織



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