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022 花畑の思い出*ふむもくエッセイ*

古い椅子を見ていると、すこしかなしくなります。
なぜだろう、と考えてみました。
考えてもわからなかったので、次の日も考えました。
それでもわからなかったので、考えるのをやめてしまいました。

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実家の近くには、小さな花畑があります。
広さは、うまく言えませんが(なぜなら入ったことはありません)、庭にしてはずいぶん広く、花畑にしては小さいくらいで、形は長方形。周囲はぐるりと背の低い格子状の柵が巡らせてあり、簡単な扉が付いています。扉は鍵がかかっていなくて、入ろうと思えば誰でも入れます。扉の横には郵便ポスト(投函用)がありました。その扉から繋がるようにまっすぐな細い道が渡っていて、道の両端に色とりどりの花が咲いています。

幼いころ、近所のおばあさんがその花畑の世話をしているのをよく見かけました。
そのおばあさんは、花畑の向かいにある小さな家に住んでいて、白くて毛足の長い猫を飼っていました。とても腰が曲がったおばあさんで、くるぶしより少し上くらいまである長い丈のスカートをいつも履いていました。

私はひどく人見知りする性格だったので、そのおばあさんがいるときはそのまま通り過ぎて、誰もいない時にゆっくりとながめていました。

緑色、きいろ、緑色、緑色、オレンジ色、ちょっと明るいオレンジ色、またもや緑色。

花の名前をほとんど知らなかった私は、そんな風に楽しんでいました。
大きな花も小さな花も草もみんな風に吹かれて気持ち良さそうでした。

一度だけ、おばあさんに話しかけられたことがあります。学校の帰り道。
「お花が好きなの?」
そう訊かれたと思います。私は心臓が止まるくらい緊張してしまいました。
「ときどき、足を止めて見てくれているでしょう?」
私ははずかしくて、同時になんだか決まり悪くて、何か言わなくてはいけないことはわかっているのに、何も言えずに立っていました。私が知っている言葉たちは、その機能を失ったように頭の中をふわふわと漂うだけでした。
「どの花が好き?」
私は、小さな黄色い花を指差しました。指はわずかに震えていました。
おばあさんは微笑んで
「あぁ、その花の名前はね――」
と花の名前を教えてくれました。
私は小さな声で
「ありがとうございます」
と言いました。なんとも情けない声でしたが、それが精一杯でした。
ぺこりと礼をして私は早足で家に帰りました。

それから、おばあさんは私に話しかけることはありませんでした。
せっせと花の世話をしているか、世話をする手を止めて花たちを見つめているか、そのどちらかでした。

季節が巡り、花畑の色が変わっても、おばあさんの丸い背中は変わりませんでした。
そしていつの間にか、私は大人になっていて、ひとり立ちしました。


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おばあさんは、もう亡くなったそうです。

おばあさんの家は駐車場になっていましたが、花畑はまだあって、今では誰が世話をしているのかわかりません。通りがかると、花はきちんと咲いていて、細い道もきちんとあって、柵もやっぱりすかすかの格子でした。
ただ、扉には小さな南京錠がかかっていました。

花畑のことを考えると、また、おばあさんのことを思い出すと、なぜか古い椅子を思い出します。その理由は考えてもわかりません。
今も、もちろんわかりません。

そして、あの時教えてもらった花の名前が、どうしても思い出せないのです。



今回も最後まで読んでくださって、ありがとうございました。

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