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184 景色の中に見えるもの

景色というものは、どれほど見ても見飽きないものらしい。
特に生まれ育った場所は。

そう思いながら、広島の平和大通りを走る車の中で、ぼんやりと流れてゆく景色を見ていた。
家族が運転する車は定期的に変わるけれど、平和大通り付近の景色は、少なくとも私が生まれてからはほとんど変わらない。

数えきれないほど見た景色。変わらない景色。でも、やっぱり見飽きない。

変わらない景色の中に、幼い頃の私や学生の頃の私が見える。
ひらひらのスカートが好きだった小さな私、犬に引っ張られながら散歩している私、制服を着て髪をふたつ結びにしている私。
笑っていたり、困っていたり、しかめ面をしていたりする。

それは私の記憶のようでもあるし、家族の頭の中にある私のようでもあるし、土地の記憶のような気もする。

運転をしている兄は、何も話さなかった。
兄も、何かを見ていたのかもしれない。

***

おばあちゃんに会いに行くのは、ずいぶん久しぶりだ。
会いに行かなくちゃな、と思いながらも、おばあちゃんがいるところは坂道を登らなければならないことを言い訳になかなか行かなかった。

兄は、おばあちゃんにちょくちょく会いに行っているらしい。
ちょくちょく坂道を登っているのに、昔より恰幅がよくなっている。

変わらない景色の中に、学生の頃の兄や京都にいた頃の兄が見える。
私と兄は歳が離れているので、私が知っている兄はすでに高校生だった。
その時は痩せていて、私にポケモンを教えてくれた。

京都にいた頃の兄は着物屋さんに勤めていたので、いつも着物だった。
お給料で私がほしがるもの(シールとかコロンとか、兄からしたら何に使うのかわからないもの)を買ってくれた。

やさしいお兄さんね、と周りの大人によく言われた。

駐車場に車を停めて、兄と歩く。
兄が花を持ってくれる。
「あ」
私は思わず声が出る。兄は片眉を上げて私を見る。
「数珠忘れちゃった」
兄はにこっと微笑む。
「僕も忘れた。大丈夫。ばあちゃんはそんなことで怒らんよ」

私も微笑む。
「そうよね。怒らんね」

おばあちゃんがいるお墓へ行く道は、少し不思議だ。
長い階段を上がると神社がある。神社の横を通りぬけると、ほとんど野道状態の細い坂がある。そこを上がると突然舗装された坂道になる。坂道の行き止まりにある小さな墓地がおばあちゃんの今の家だ。

他の行き方もあるはずなのに、昔から(それこそおばあちゃんが生きていた頃から)お墓に行く時は神社の道から行く。
誰も他の道で行こうとしたことはない。

小ぢんまりとした墓地は、30ほどのお墓が仲良く並んでいて、見晴らしも良くて気持ちがいい。

おばあちゃんに話すことがたくさんあったので、長く手を合わせた。
「千の風になって」という歌に、亡くなった方の言葉として「そこに私はいません。眠ってなんかいません」とある。確かにそうだなと思うと同時に、それでも私にはこんな風に会いに来られる場所が必要とも思った。

***

兄が
「おばあちゃんの家が建っていたところ、行ってみる?」
と提案したので、行くことにした。
おばあちゃんの家がすでに解体されたことは知っている。
しかし、解体後にその場所を見に行っていない。
だから、おばあちゃんの家はまだ私の心の中では建っていて、すでになくなっていることに実感がなかった。

おばあちゃんの家に近づくに連れて、恐怖が湧いてきた。
おばあちゃんがもういないことを、改めて突きつけられるような気がした。

「ね、やっぱり、行くのやめようか」
私は兄に言う。
「どうして?」
と聞く兄に私は何も答えられない。
兄は足も止めずに歩いていく。
「見たほうがいいよ。見てわかることがあるから」

おばあちゃんの家が建っていたところは、更地になっていた。
思ったよりずっと小さな土地で、麦わら色の砂が顔を出していた。
家も木や植物もおばあちゃんの水色の自転車も何もなかった。

胸がしめつけられ、苦しくなった。
だから来たくなかったのだ。

兄は私の肩に手を置いた。
「なにもないね。この場所は、これから何か建物が建つかもしれない。何も建たずに駐車場になるかもしれない。空き地のままかもしれない。どうなるかはわからない。でも、僕らはいつでもばあちゃんの家を思い出せる」

その時、ふわっと風が吹いた。
足を止めていなかったら気づかないような、微かな風。
つめたくない、寄り添うようなやわらかい風。

おばあちゃんの小さな家、猫の額くらいの庭、水色の自転車。

私は何も失っていないのかもしれない、と思った。
私は、十年前、その場所に家も木も自転車もあったことを知っている。
だから、家がそこになくても、おばあちゃんはお墓にすらいなくても、確かに見える。

家の中には今でもおばあちゃんがいて、ねぎを刻んだり、だれかの靴下を編んでいる。
箪笥の引き出しには孫にわたすために集めた500円玉とポチ袋が入っている。
押し入れには、砂糖と塩がどっさりある。
急逝したおじさんもそこにいて、煙草を吸っている。
分厚いガラスでできた灰皿とくしゃくしゃになったマルボロの箱が転がっている。

これは私の記憶なのか、兄の記憶なのか、土地の記憶なのかわからない。
でも、ずっとそこにあるものだった。

***

兄の車は、来た道をそのまま帰り道にして走る。
「見た?」
兄の言葉に私は頷いた。

兄は、高校生の頃より恰幅が良くなって少しだけ髪が薄くなり、20代のころより口数が減っていた。
私も子どもの頃より笑い上戸ではなくなって、学生の頃より困らなくなって、何人かの大切な人を失った。

でも、私たちは何も失っていないのだ。
子どもの私も学生の兄もいつもそこにいる。

変わらない風景の中、これまでの私や兄が通り過ぎていくのを感じながら、今の自分の場所へ帰った。



※このお話はフィクションです
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