170 秋の気配とチーズケーキ

この夏はずっと雨が降っていて薄暗い毎日だったので、目覚めたときに部屋が明るいとうれしい。

午前中、窓を開けて仕事をしていたら、青空が近く感じられて心強かった。
遠くで聞こえる、のんびりした工事の音（天気が不安定だったので、工事もなかなか進まなかったようだ）、車の音。ときどき誰かの話し声も聞こえるような。

私が知っている人も大切な人も、今ごろ誰かと話しているかな。
車に乗っているかも。もしかしたら、工事現場の近くを歩いているかも。

自然の音も心落ち着くやさしい音楽だ。

仕事が一区切りついて、時計を見たら15時前。
朝から紅茶しか飲んでいないことに気がついて、冷蔵庫に手をかけた瞬間、「外に出たい」と思った。窓から入る空気だけじゃなくて、外の空気に体を浸したい。

そう思って、簡単に身支度をして出た。
家から見るよりずっとずっと青くて大きな空。
いつも見守ってくれる人に再会した気分。

歩けば空気は動き、リズムが生まれる。
やわらかな風にわずかな秋を感じた。

歩いて5分のところにある小さな喫茶店は私のお気に入りだ。
お店に入ると、いつものようにコーヒーの香ばしい香りとクラシックが迎えてくれる。
お客さんがほかにいなかったら、店主のおじさんが少し話してくれたり、レコードをかけてくれたりする。

レトロなテーブルライトも重ねて置いてある雑誌も、みんな空間と調和していて落ち着くのだ。

しかし、入店してすぐ店主のおじさんを見てハッとした。
私はおじさんのマスク姿を初めて見たのだ。
ということは、前このお店に来たのはコロナも自粛もなかったころだ。

おじさんは、もう私のこと覚えていないかもなぁ。
そんな風に思いながら、窓際のカウンター席に腰をおろした。
そうそう。前に通っていた時は、まだコーヒーが飲めなくて、紅茶やブルーベリージュースを飲みながらおじさんがこりこりと音を立ててコーヒー豆を挽く音を聞いていたっけ。

お腹が空いていたので、ホットサンド（ここのホットサンドはほんとうにおいしい。特別なものは何も入れていないのに、食べると体のすみずみまでしあわせになる）にしようと思ったが、念のため
「今日のケーキは何ですか」
と訊いた。いつも通り、りんごのケーキとチーズケーキ、ガトーショコラ、シフォンケーキだった。

ここはいつ来ても同じケーキを作っているけれど、メニューには「本日のケーキ」としか書かれていなくて、ちょっとおもしろい。
いつも同じケーキ（のはず）なのに、店主のおじさんも「ケーキは何か」と訊かれると、思い出しながら言うところもおもしろい。

結局、チーズケーキとコーヒーを注文した。
待っている間は本を読もうと思っていたけれど、なにもしないことにした。
窓から入ってくる風の感触と店内に流れるラフマニノフ、コーヒーの香り。
目を閉じてそれらを楽しんでいた。

おじさんと最後に話したのは、『グレート・ギャッツビー』についてだった。おじさんは村上春樹の翻訳が一番すきだと言っていた。

ことん、と音がして、チーズケーキとコーヒーが出てきた。
食べたことあるケーキと初めて飲むコーヒー。
しかし、ケーキには生チョコが添えられていた。

はて？チーズケーキに生チョコがついていたかな。
おじさんは静かに洗い場で作業をしている。

コーヒーは酸味がほとんどなく、心地よい苦味とコクのある味だった。
チーズケーキは、前に食べたときと同じ、濃厚なチーズの味がした。

そして次の瞬間、気が付いた。
店内の音楽がラフマニノフからバッハに変わっている。
私がバッハの音楽の中で最も気に入っている、無伴奏チェロ組曲だ。
深呼吸に似た奥行きのある音。

おじさんは、ちゃんと私のことを覚えてくれていたのだ。
心に響く音楽におじさんのやさしさを感じた。

もしかしたら、チョコレートもメッセージだったのかもしれない。
私は、紅茶を頼むときによく生チョコも頼んでいた。
「久しぶり。ゆっくりしていって」
そんな言葉が聞こえてくるようだった。

誰かに見守られているあたたかさ。
それに気づいたときの心強さ。
言葉がなくても伝わる気持ちは、きっと力になる。

喫茶店からでると、空はまだ青かった。
そして目の前を一匹のトンボが横切った。
トンボはすいすいと泳ぐように飛んでいく。

喫茶店の前にある植物にとまって、少しじっとして、また私の目の前を横切った。
今年も会えたね、と言われた気がした。

忙しい日々の中、周りにあるやさしさに気づいた夏と秋の間の一日。

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