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【前編】世の中から寂しさをなくしたい ほぼホームレスだった僕が代表取締役になるまでのストーリー

こんにちは、トピカ代表取締役の麓(ふもと)です。

これからnoteの運用をはじめていこうと思い、何から話そうかと考えた結果、まずは自己紹介から始めようと思いました。

僕の人生は死にそうになったり、引きこもったり、入社初日にクビになりかけたりと色々ありました(笑)。

それでも今はトピカを立ち上げ、僕が経験した「世の中の寂しさ」をなくすため、日々SNS動画マーケティングを中心に事業を展開しています。

そんな僕が33年間どんな人生を歩んできたのか、最後まで読んでみて下さい。

学校<FF11 僕を支えた”ゲーム”というコンテンツ

僕は兵庫県宝塚市で生まれ現在33歳。ちょうど5歳の時阪神淡路大震災を体験しました。

しかもその時、僕の寝ていたところに、いわゆる嫁入りタンスがちょうど倒れてきたんですよ。まさに、僕が寝ている真上に。

でもどうやら、寝相が悪かった僕は押入れの隙間まで移動していたらしく、幸いにも直撃を回避。我ながらなんて運が強いんだと思いました(笑)。

なんとか生きてはいたものの、その後の生活は一変。

カップラーメンを家族4人で分け合って飢えを凌ぐ、そんな生活が続いていました。

しかし僕は当時5歳。

テレビのバラエティ番組を見て「なんでみんなこんな楽しそうなんだ?
こっちは明日食う飯も選べないんだぞ。」
と、理不尽に降り掛かったこの境遇に悲しみを感じました。

それからときは経ち、住んでいる団地の耐久度もない。

両親は夢のマイホームが欲しいとのことで、田舎の祖父母の近くへ家を建てて引っ越し。

その時は「やった、じいちゃんとばあちゃんに会える」くらいにしか思っていませんでした。

でも蓋を開けたら引っ越しということで、友達とお別れをし、気づいたら僕の少年時代は電車が一時間に一本しかないような田舎で第二章がスタート。

幸いにも近所の子たちは都会から来た僕を快く受け入れてくれ、楽しい学校生活が始まる…予定でした。

ところが、先生と馬が合わず小学5年生から徐々に学校へ行かなくなり、半不登校気味に。

それでも興味のある授業だけ顔を出すみたいな、10年ほど早く大学生をしている感じでした(笑)。

しかし中学校からはまた登校するようになり、最初の1年ほどは成績も良かったです。

やや不登校だったけど、中々頑張ったほうかなと思います。

ちなみに、順調に思われた中学校でも一波乱ありました。
きっかけは、視力低下に伴い黒板が見えなくなったこと。

「そんなこと?」と思う人もいるでしょう。

それでも、コンタクトを買ってもらえずメガネを掛けなければいけないことは、当時の僕にとって結構重要なポイント。

最終的に勉強についていけなくなって成績が下がり、学校がつまらなくなりました。

そして再び僕の引きこもりを決定づけた存在、それはPS2で遊べたファイナルファンタジー11。(以下FF11 )

初めてFF11を手にした僕は「やばい、これはハマる」、と思いそして見事にハマりました(笑)。

文字通り四六時中、ずっと自宅でFF11に没頭。
もちろん学校なんて行きません。

共働きの両親が出かけたあとに自宅にこっそり戻り、ゲーム・ゲーム・ゲーム。

うちは基本的に「好きなことをしなさい」、という教育方針だったのですが、僕のゲーマー生活は、些細なことで綻びをみせました。

それは僕の家が学校の隣にあること。
学校に連れ戻したい先生からしたら、最高の立地ですよね。

予想通り、先生たちや同級生はプリントを持ってきては「明日は来いよ」と、声をかけてきます。

当時の僕は「いや、うざい。僕はFF11の世界でボスを倒すのに忙しいんだよ」とずっと思っていました。

しかし、さすがに親の堪忍袋の緒が切れて、僕のFF11は親の支配下へと吸収。

それでも「FF11の世界でみんなが俺を待っている」、そう思った僕は、自宅のPCでFF11の世界へ復帰を目指します。

久々に学校へ足を運んだ僕の開口一番のセリフは、「お久しぶりです、麓です。パソコンでFF11をプレイする方法を教えてください」。

今思うと「なんてふざけた生徒なんだ」と思います(笑)。

しかし、パソコン室の先生はゲームができるよう必要なグラボやスペックを教えてくれたので、その通りお年玉で商品を購入。

ですが結局スペックが足りず、インターネットでパソコンのゲームを遊ぶ方法を探していたときに運命的な出会いが訪れます。

独学で現状を突破 14歳で出会ったプログラミング

インターネットで調べていくうちに、「パソコンはゲームを遊ぶものではなく、ゲームが作れるものなんだ!」と気づきました。

そこからは独学でホームページを立ち上げ、簡単なゲーム制作を開始。

ネットに転がっていたオープンソースのゲームを改変した、本当に簡単なゲームですが、3人ほどプレイしてくれる人が現れました。

そして掲示板には「管理人さんいつもありがとう、このゲーム面白いですね」とメッセージが。

正直震えました。

学校も行かず四六時中ゲーム生活。
勉強もできず友達もそんなに多くなかった、そんな僕に対して「いつもありがとう」。

自分の存在価値や意義を実感できた、自己肯定感が上がる瞬間でした。
今思うと、明らかにこれは人生のターニングポイントです。

余談ですが、学校にいかなくなったあたりで、テレビで3年B組金八先生が放送されており、引きこもり役をジャニーズの風間俊介さんのお兄さん役が演じていました。

一緒に見ていた母が一言。「この人、俊介(僕)みたいだね」

その時なにかハッとして、「ああ、俺って外から見るとこれと同じなのか」と気付かされました。

子供ながらに自分の立ち位置に危機感を覚えたシーンでした。

ちょうどその頃は、テレビではたまに六本木ヒルズ族の特集のようなものが放映されていた時代。

インターネット業界で活躍する素晴らしい経営者の方を田舎から見ているうちに、「自分もいつか東京でIT業界で働いていきたい!」そう思うようになっていきました。

中学校のとき、将来なりたい夢みたいなものを決める授業で周りの同級生はプロ野球選手やサッカー選手などを目標にしていましたが、僕だけ、ゲームクリエイターとIT起業家でした。

その後、僕は最大にして最も簡単な問題に直面。
「そもそも僕は学校でまともに勉強してない!高校に行けるのか?!」

僕が独学でプログラミングをしていたりITに興味があることを知っていた先生が手を差し伸べてくれました。

そして僕は、ITに関する授業が選べる高校へ進学。

高校生活が始まり一応僕も人並みにバイトを始めようと思い、キッチンで皿洗いを始めました。

ですが、誰でもできそうな仕事よりも、自分がしたい仕事でお金を稼ぎたいと思った僕は、高校生でしたが、アフィリエイトの仕組みを活用したサイトを作りお小遣いを稼いでいました。

こうして高校生活も楽しみつつITスキルは身についたものの、大学に行くための勉強もできておらず、あまり学校の教育から逃げていたため、専門学校へ進むことになりました。

新卒入社初日、言われた言葉は「お前誰?内定は取り消しね」

ある程度のITスキルが身についていた僕は、専門学校の学生たちと協力しビジネスを開始。

引き続き小さなアフィリエイトビジネスを展開したり、一緒に地域の商店のHP制作を請け負って進めていたりしました。

そんな感じでITスキルとビジネスの経験を我流で積んでいましたが、次に就活で大きな問題に直面。

僕の住んでいた兵庫県には理想の求人がなかったのです。
そして学校側も動いてくれませんでした。

そこで僕は、東京で勢いのあったベンチャー企業を見つけて自分で連絡をし、面接をセッティングしてもらいました。

幸いにもすぐに内定が決まり、東京のベンチャー企業で働く未来が見えてきました。

そして入社初日。まずは内定書を取りに、夜行バスにのってオフィスへ訪問。

初任給は30万円、東京の茅場町に家賃10万円のマンションも候補にいれていざ!

「始まる、ここから僕の東京ライフが!」、僕は自信に満ち溢れた顔つきで東京へ向かいました。

しかし、東京にきて待ち構えていたのは、驚きの展開でした。

なんと、僕が入社する予定の会社が買収されていたのです。

そして、内定前にお世話をしてくれていた大人たちがゴッソリいなくなり、別の会社になっていたのです。

知らない人が経営する、知らない人しかいない会社になっていました。

買収元の会社(親会社)は民間の事業再生ファンドで、顧客とサービスがあるがお金が回っていなかった僕が入社する予定だった会社を買っていたのです。(結局は立て直せなかったんですけど。)

親会社の社長に初めて会ったときに言われた言葉は忘れません。

「ここの会社、俺が買収したから」。

「ん?買収?つまりなに?」、20歳の僕にはよくわからない世界でした。

驚いている僕に対して、そして最後の言葉。

「お前誰なのか知らないけど、新卒なんて能力ないし、給料払うのもったいないからお前いらないよ?」。

「内定取り消しだけは嫌だ!と思った僕は、ひな壇に座っている若手芸人ばりの「ちょっとまってくださいよ〜!」の勢いで熱意、やる気のアピールを開始。

「東京で起業家になるため地元を出てきました。地元の友達にも絶対成功するまで帰ってこないと豪語してここまで来たから、帰る場所がありません。
親にだって一人で生きていくって言って出てきました。」

するとその社長は「そんなに気合入ってるのか、気に入った」と言ってくれて、どうにか首の皮一枚繋がりました。

これで社会人へのスタートラインに立つことができました。

こうして僕はEC関係のシステム開発をするために東京にでてきたと思ったら、投資・金融の世界とシステム開発の世界を体験していくことになったのです。

その会社では人がゴッソリいなくなったので、いろんなことを体験させてもらえました。

システム開発だけではなく、営業も、企画も、マーケティングも。

東京のど真ん中での生活は楽しいな〜!」と、そう思ったのもつかの間。

入社してから2カ月目以降、給料がなぜか支払われない。
いわゆる給与の遅配でした。

親会社の財務状況もなぜか悪化していたのです。
先輩はどんどん辞めていくし、社内の雰囲気も最悪。

しかし初めての社会人生活、僕はこれがある種普通だと思っていました。

幸い(?)にもクレジットカードがあったため、お金が尽きることはなく、無給でも働いていました。

無知な僕はクレジットカードをガンガン使って生活していたのです。

でもある日気づいたんです。「これ、僕の金じゃない、リボとローンってやつだ」。

そして債務は最終的に約200万円ほどまでいきました。
この時初めて本気で思いました、「このままじゃまずい」と。

就業後や土日にバイト、昼食は先輩が食べたうどんの残り汁をすする。

電気が止まったIHの家ではお湯も沸かせず、パスタを乾麺で齧ったのもいい思い出です。

家賃も払えず家を追い出され、もはやホームレス状態。

実家の親からの電話には空元気。
あれ、僕ってカイジなのかな?」と思ったときもあります。

そこからは日雇いで得たお金をもとに、知り合いの家を転々と泊まり歩く生活を続けていましたが、そこであるベンチャー企業と出会うことになります。

※あのとき、厚木方面の引っ越しの派遣で一緒になった、これから起業してgoogleに計算機ソフト作ってその会社を売却するんだっていってた起業家?の人元気かな・・・

ひとまずここまでが前編。

振り返ると、よく生きてこれたなと思う人生でした(笑)。
ここまでは中々苦労ばかりでしたが、後編からは一気に好転します。

この続きは、ぜひ以下のリンクから読んでみて下さい。




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