全体交流って必要ですか?

 今日は、オンラインと対面のハイブリッド研修を企画した。自分の所属するサークルの例会だった。
 対面の皆さんにもズームに入ってもらって進めてみた。
 最初は、対面の人とオンラインの人が、ブレイクアウトルームに入って、交流してもらった。当然であるが、対面でやる価値がないと分かった。対面をわざわざ分離させることに意味はない。まあ、ちょっと考えてみれば分かることなのだが、やってみて、その滑稽さをより強く感じた。これは、こちらの設計ミスだった。
 そこで、次は、対面とオンラインを分けてみた。そして、最後に対面側とオンライン側それぞれで話し合ったことを共有してみた。これは、なかなかよかったように思う。
 提案も、画面共有をして、対面とオンラインどちらにも届くように話しかければ、問題ないことがわかった。
 ここまでが、対面とオンラインの研修の概略なのだが、今回のことで、はっきりしたことがある。

 それは、「一斉授業的な観」が自分に、こびりついていることだ。
 それぞれのグループ交流後の全体交流の場面を作った。
 「それぞれのグループで話したことを共有しましょう。」というよくあるやつだ。
 それを終えた後、ある参加者から、「30分話したことを、1分間でまとめて話せと言われた時の敗北感」という言葉をもらった。なかなかにうまい言葉だと感じた。たしかに、絶対に伝わるはずがない。
 この「全体交流」というのは、一斉授業的な観を自分がもっているからこそ、出てくる発想であると感じた。

 ICTが入ったことで、子どもたちの考えは、ほとんど常に共有される状態にある。その上で、全体交流を行おうとする意味を本気で考えなければならない。

 例えば、1つの答えに向かって、各グループで話し合い、その結果が全グループ出ない場合の全体交流を想像しよう。おそらく、うまくいかなかった意見を出し合う中で、「うまくいった!」という全体交流にはならないのではないか。
 では、1つの答えに向かって話し合い、どこかのグループがうまくいっていて、他のグループがうまくいっていない中での全体交流を想像しよう。おそらく、うまくいっているグループが勝者で、他が敗者であるような全体交流になるだろう。
 これに、本当に価値はあるのか。いや、ない。

 まず、答えが複数ある状態でなければ、グループ交流から全体交流に向かう意義はまったくないと考えている。

 答えが複数ある場合で、2つのシチュエーションを想像しよう。
 1つは、それぞれの妥当な答えが出ている中での全体交流だ。これは、「うん、それぞれが妥当な答えだね。」と出した後の問いや発展課題がなければ、「なんでもいい」となりかねない。妥当な答えの中で、「〇〇」の視点から考えるとどれがいい?と考えさせることでより深まるだろう。もちろん、こう問えるだけの課題かどうかが大切であるが。
 もうひとつは、それぞれが、答えを出した後に、新たな問いが生まれ、その答えがまた生まれるような学びの連続が起きている場合だ。この場合は、全体交流の場面が、思考のブレーキになるだろう。絶え間ない答えと問いの往還の中で、全体交流で話されたことを、(それは、自分たちの中でも出ていたよ。)と思いながら聞くこともあるだろう。また、(さっきまで、〇〇をいい感じで話せていたのにもったいないなあ…。)と思うこともあるだろう。
 前者の場合は、全体交流の価値が多少なりともあるだろう。しかし、答えを1つにしぼる意義が、子どもとも共有できていないとならない。
 後者の場合は、全体交流の価値はないどころか、学びを阻んでしまう要因にすらなっているように感じる。

 これからの授業の中で、「全体交流」の価値ってなんだろう?と考えた時間だった。今のところ、話し合いを通して、学び気づく経験としての全体交流しか思い浮かばない。だから、学習課題そのものが話し合いである以外は、話し合いという手段を全体に強いるのは価値があまりないと現段階では思う。
 

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