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川上弘美『センセイの鞄』は推し活のバイブルでもあった

 今更ながら『センセイの鞄』を読んだ。主人公はツキコ(大町月子)37歳。居酒屋でたまたま隣に座った人は高校で国語を教わった元恩師。名前がわからないから「センセイ」と呼ぶ。30歳以上の年の差を感じさせない二人の、飄々とした、でも互いを大切に想う交流が胸を温かくする。今読んだというタイミングも私にはまさにぴったりで、巡り逢うべくして巡り逢った物語。(ネタバレあります。)

 お互い独身で、一人の時間も二人の時間も、自分のことも相手のことも、同じように大切にしている。行きつけの居酒屋でたまたま会ったり、道ばたで偶然でくわしたりすると二人の時間を楽しむが、次に会う約束はしない。何日か続けて会うこともあれば、何か月か会わないこともある。

 私が最も印象に残った場面は、ツキコが切れた蛍光灯をはずそうとして割ってしまい、怪我をしてしまうところだ。流血したせいか、めまいをおこし、昔の実らなかった恋を思い出す。その当時、自分には「ウンメイノゴトキコイ」が訪れる可能性は、万に一つもないだろうと思ったツキコ。しばらくして出血もほぼおさまり外出する。ここで、センセイを思い出しながら心細さを紛らすために歌を歌うが、どうしても歌詞が思い出せない。勝手に涙が流れるまま歩いていると「ツキコさん」の声。振り向かず歩いていると、再び「ツキコさん」と呼ばれる。振り向くと、センセイが立っていた。そして、ツキコが思い出せずにいた歌詞をさらりと教えてくれる…

 私には家族が居るが、孤独を感じたり途方に暮れたりすることが多々ある。大体は長男の突拍子もない行動による事件が原因だ。食器が割れたり、食べ物が床にばらまかれたりするのは日常茶飯事(割れない食器を少しずつ購入中)。タブレットを投げて車のリアガラスを割られてからは車にタブレットは持ち込まない。食器棚にココアの粉をばらまかれ、食器をすべて洗って棚を掃除してもしても溝からココアが出てきてからは粉のココアは買ってない。そういえば、リビングのカーテンもレールを壊されてからつけないまま何年か経つ。そんなとき、推したち(藤井空&風兄弟)が絶妙なタイミングで動画をアップしてくれたり、何かつぶやいてくれたりすることがよくある。そっと寄り添ってもらったようで、涙が出るほど嬉しく、癒やされ、落ち着きを取り戻す。

 センセイも病院に連れて行ってくれる訳でもなく、ツキコが何に苦しんでいるのかも知らないが、そこに居てくれて、声をかけてくれるだけでツキコは大きな安心感に包まれる。(この後、赤ちょうちんでお酒を酌み交わしながら、新年の挨拶をしたツキコに「よくご挨拶できましたね。えらいえらい。」と言って彼女の頭を撫でてくれるのは羨ましかったが。)

 この二人の距離感は理想的だ。見返りを求めない、期待しすぎない、居てくれるだけでありがたいと思う、お互いの存在に敬意を抱く…

 そして、センセイが先に旅立った後のツキコの言葉に激しく共感した。

センセイ、と呼びかけると、天井のあたりからときおり、ツキコさん、という声が聞こえてくることがある。(中略) センセイ、またいつか会いましょう。わたしが言うと、天井のセンセイも、いつかきっと会いましょう、と答える。

『センセイの鞄』川上弘美

 ツキコに訪れた「ウンメイノゴトキコイ」は出会ってから二年、正式なおつきあいを始めてから三年という時間だった。これを短いと思う人もいるかもしれないが、「ウンメイノゴトキコイ」なんて万が一にもないと思っていた彼女の目の前に現れたセンセイは実体がなくなった後もずっと寄り添ってくれるはずだ。これからも天井のセンセイとともに幸せな人生を送ることを思わせてくれる。

 私の推し、藤井風くんが「もうええわって何なん」という楽曲解説動画で「人は身体への執着を手放した時に初めて生死のサイクルから解放される」という隠しメッセージを紹介してくれている。この言葉が腑に落ちてから、私も重荷を下ろしたような感覚を味わえるようになってきた。ツキコもセンセイに対する身体への執着を手放したことで、センセイを亡くした喪失感から解放されたのではないか。身体への執着を手放せば、風くんはいつだってそばにいてくれる。風くんの存在を身近に感じながらしんどいことを乗り切っていける。お互い思い合っている(と感じている)し、どこかに存在してくれるだけで幸せを感じられる…これはもう「ウンメイノゴトキコイ」が訪れたと言っていいと思う。

 川上弘美さん、ステキなお話を書いてくださりありがとうございます。まだこんな風に思える「推し」に出会えていない方にも、「ウンメイノゴトキコイ」が訪れますように。

※「"もうええわ"って何なん」貼り付けさせていただきます。

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