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僕のランラン人生6 関東地方

図1

                  <栃木県 東京都 埼玉県>

6-1 今市杉並木マラソン大会(第21回)

  ~例幣使街道の杉の樹々のささやきを肌で感じ、爽快に走ろう~
                       2001年8月   栃木県今市市

 今市杉並木マラソン大会は、栃木県日光市(旧今市市)にある例幣使街道を走る。
 例幣使街道は、日光街道の中でも最も杉並木が美しく、また歴史的にも意義深い街道だ。
 杉の樹齢は約370年。現在約13,500本が残されている。日光の神橋を起点に総延長約37㎞。世界一長い並木として、ギネスブックに紹介されている。
 日光市は、宇都宮市に隣接し、古くから日光参詣の宿場町として栄えた町だ。
 山形県米沢市からは、東北縦貫道路、宇都宮ICを下車して、日光宇都宮道の今市ICより今市に入る。

図1


 鉄道は、東武日光鬼怒川線の下今市駅で下車するか、JR日光線の今市駅を下車して今市に入る。
 大会は、日光市立(旧今市市立)東原中学校のグランドをスタートゴールとして、次のように行われた。

   期  日 8月第1日曜日
   コ  ー  ス 今市例幣使街道(日光街道)
   スタート 午前7時45分 東原中学校
   参加者数 約2,000人
   種     目 小中学生(3㎞) 5㎞ 10㎞
   参  加  賞 Tシャツ 杉板の絵馬等

 本大会は、今市の夏の一大イベントとして、多くの市民の協力の下に開催された。
スローガンは、
「例幣使街道の、杉の樹々のささやきを肌で感じ、爽快に走ろう。」
となっている。
 8月初旬といえば、盛夏の季節、この頃の気温は30℃前後にもなる。真夏の大会にもかかわらず、毎年、全国から2,000人以上のランナーが集まって来る。
 
 午前7時45分スタート。遅くとも7時20分までにはアップを終了しておかなければならない。真夏の大会だけに、気温が上がる前までに終了させようと、配慮されている。
 早いスタート時間だから、私達は、前泊して、当日の朝、早々と会場に入った。朝食もそれにあわせて、6時前には終了させた。
 駐車場は2,000台分準備されているが、予定されてた駐車場は、早々といっぱいになっていた。私達は、幸いにも東原中学校の近くに駐車することができ、大会に臨むことができた。
 夏の大会だけに、参加者は、太陽が上がったときの避暑を考えており、東原中学校のグランドには、午前6時過ぎから、あちこちにテントが張られていた。
 
 多くの選手達は、早い時間からウォーミングアップを開始している。私達も、スタート地点を確認し、準備体操を始めた。
 中学校を出るとすぐ、例幣使街道となっている。ウォーミングアップも鬱蒼とした例幣使街道での軽いジョギング。朝の街道は、朝霧で少し濡れている。
 街道の両側には、いずれも、樹齢370年以上の杉がそびえ立っている。その中を、二人でゆっくりジョギングをしながら足をならした。
 すべての杉の木が、天に向かって伸び、私達は、こぼれてくる陽光に煙る朝霧をいっぱいに吸い、ウォーミングアップは終了した。

 7時45分、スタート、2,000人のランナー達が位置に着いた。
 スタートのピストルの音が、杉の樹林に吸い込まれてた。これ程多くの人達が一斉に動きだしても、杉の樹林は微動だにしない。大樹林の道は、神々の道のようだ。

図2

 樹林は、夏の暑さの中でひんやりとした空気と、快適な湿度を提供してくれる。
 折り返して、例幣使街道の樹林トンネルが終了して、間もなくゴールが見えてきた。急に、眩しくて熱い夏の世界に入った。
 再び、東原中学校のグランドにもどり無事ゴールした。

図3

 日差しがひときわ強い夏の日、ゴールした後は、体いっぱいに汗が流れ出してきた。冷えたタオルで、その汗を何ども拭き取り、冷たい水を補給して、真夏の大会は一段落した。

 ところで、日光へ通じる道、日光街道には次の3路線がある。
 御成街道(おなりかいどう)、会津西街道(あいずにしかいどう)、例幣使街道(れいへいしかいどう)。これが現在の今市市で一つになって、日光街道となり、日光東照宮が終点となる。

図4

 杉並木は、徳川家康、秀忠、家光公の3代にわたって将軍家に仕えた松平正綱が、約20年の歳月をかけて植樹したものだと言われている。
 すべての杉の木の直径が1m以上ある。中には、2m以上に及ぶものもあるという。
 例幣使街道の杉の樹木群は、江戸時代から今日まで命をつなぎ、これからどれくらいの未来を間生き抜いて行くのだろうか。

 現在この杉並木は、国の天然記念物、重要文化財の2重の指定を受けているとのことだ。
 なお、最近では、「日光杉並木マラソン大会」としてエントリーしている。
 現在(2021年)、コロナ禍にあるため、第16回大会は、延期となっている。


6-2 どまんなかマラソン大会(第4回)

                      ~ 日本列島の中心、田沼町を走ろう ~                                       2004年2月21日  於:栃木県田沼町

 どまんなかマラソン大会は、3月の第3日曜日、栃木県阿蘇郡田沼町で開催された。

図8


 「春をつげる爽やかな風をいっぱいうけ、日本列島の中心、田沼町を走ろう。」
 というキャッチフレーズで、ランナーを召集した。

<種目>
    ハーフ   5㎞   2㎞   2㎞親子ジョギング                        参加選手計 1,600名

 田沼町は、栃木県の県都、宇都宮から約50㎞、東京からは80㎞圏内にある。JR両毛線、東武伊勢崎線に直結する東武佐野線が通る。

 ハーフの部は、330人のエントリーだ。本大会を待っていたかのように、栃木県を中心に、関東一円からランナー達が集まっていた。2㎞、5㎞の部には、田沼町の小中学校の児童生徒も多数参加し、大会を盛り上げていた。
 
 スタートである。スタートは田沼町役場となっている。1,600人の選手と、その家族も多数応援に来ている。
 ハーフがスタートした。次いで残りの種目が一斉にスタートした。
 スタートしてすぐに県道に入り、旗川添いにしばらく行く。野上小学校前で折り返し、再び田沼町役場にもどるコースだ。

図2

 ほぼ平坦なコースでとても走りやすい。気温は10℃、春のそよ風の中、絶好の気象条件だ。小中学校生も多数参加することから、その保護者達も応援にかけつけていた。 
 沿道にも多くの町民が出て声援してくれる。田沼町全体の盛り上がりの中で大会が進んで行った。

図3

 私も快調に走り、無事ゴールインした。

  ちなみに、記録は、
      私 25分 10秒(5㎞)       妻 27分 16秒(5㎞)
  だった。

 さて、本大会はどまんなかマラソン大会という。それは、田沼町は文字通り日本列島のどまんなかの位置にあるという意味だ。緯度、経度の関係は図のようになっている。
 このように、日本列島南北、東西の地球表面にそった最短距離を結んだそれぞれの中間点が、ちょうど田沼町ということだ。

図4


 その地点に道の駅「どまんなかたぬま」を作り、モニュメント、「水の翼」を設置した。それは、日本列島を円弧として描き、その中心になる田沼町を水滴で表している。

図5

 田沼町は、栃木県ではその南西部に位置し、東は葛生町、岩舟町、南は佐野市、足利市、北は桐生市に接している。

  さて、ここ田沼町は日本の歴史において、江戸時代、幕政の実権を握った田沼意次の先祖代々の所領地としても知られている。

 北海道の中心、富良野市で開催される「ふらのへそマラソン」もかつて走ったが、この度は、日本列島のどまんなかでの大会だった。

 なお、現在の佐野市は、旧葛生町、旧田沼町、旧佐野市の3市町が合併して、2005年2月28日に誕生している。
 そのため、この地域のマラソン大会は、「葛生原人マラソン」、「どまんなかマラソン」、「佐野シティーマラソン」等、それぞれの地域ごとに大会が開催されていたようだが、大会もそれにあわせて変化している。


6-3 皇居周回クリスマスチャリティーマラソン(第18回)

        ~ 今年のラストレースは皇居を走ろう ~
           平成15年(2003年)12月21日
                東京都・皇居周回コース

 12月の大会を探していると、
「今年のラストレースは皇居を走ろう」
と呼び掛けている本大会を見つけ、早速申し込んだ。
 皇居周回コースを走ってみたいと思っていたから、よい機会となった。
クリスマスチャリティーマラソン大会は、皇居の周回コース、私が参加した2003年の大会で、18回大会だった。

図9

 当日の朝、私の住む米沢市は雪が降っていた。雪降りの中を走るのは避けたい。かつて、地元大会で、雪が降る中を走った経験がある。道路に雪があると、シューズがスリップして、とても走りにくく、危険だ。
 起床してすぐさま、天気予報を確認すると、東北、北陸、山陰地方の日本海側が雪マーク、しかし、関東地方は晴れとなっていた。躊躇はなくなった。
 山形新幹線のお陰で米沢、東京間は2時間で往き来できる。
「夫婦同一行動の割引乗車券というのがありますよ。」
とJR窓口の方が教えてくれた。早速、それを利用することにした。

 新幹線が、米沢市から関東地方に入ると、空は澄んだ青色の空に変わってきた。昨晩はだいぶ冷えたらしく、栃木県の那須岳がうっすらと雪化粧していた。大宮まで来ると、富士山がくっきりと見えた。
 皇居の周囲、桜田門集合という案内で、更衣する場所の指示は特にない。荷物預かり、給水、売店もない。
 私達は、有楽町駅のコインロッカーを一つ確保して、荷物を預けることにした。有楽町からは、徒歩10分程で、集合場所の桜田門広場に到着した。
 
 体会の趣旨は、クリスマスチャリティーマラソンであり、また、この一年の終わりに、皇居を周回ランニングをして、爽やかな汗をかきましょうと、記されていた。
 参加者名簿、プログラムもないようだ。本部のテントも特に張られていない。何とも奇妙な大会だとも思った。徹底して費用をかけないということか。

 要項らしいものはないが、次のようである。
      期 日  平成15年(2003年)12月21日
      種 目  15㎞(一般男子、一般女子)
             5㎞(一般男子、一般女子)
      定 員  700名まで
      本 部    桜田門広場時計塔前
      主 催       ニューヨークマラソンクラブ
      スタートゴール  皇居桜田門広場時計塔

 私は15㎞を選ぶことにした。妻は、5㎞を走る。皇居一周は約5㎞だから、私は3周、妻は1周を走る。

図10

 チャリティなので、参加料の一部を「歳末たすけあい」に寄付するとのことだ。
 主催関係者は、桜田門広場時計塔の場所に簡易の本部を作って受付しているようだ。黄色のジャンパーを着ている人達が、ハンドマイクをもって、案内していた。
 受付は、前もって送られている受付票を確認し、白い手袋が渡されるだけだ。シンプルすぎるとも思うが、そういう大会だ。

 参加申込書には、
「大会終了後は、仲間と、この1年のランニングの打ち上げ会もよし、忘年会もよし、和気あいあいといきましょう。」
と、添えられていた。
 受付を済まして、午後1時30分、15㎞のスタートだ。皇居であるため、スタートのピストルはならさない、となっている。
「1分前です。準備はいいですか。スタートしてすぐに石段がありますから、つまずかないで下さい。」
と、ハンドマイクで伝えられた。

図11

 白い旗を振られてスタートだ。気温は12℃くらいだろうか。風はほとんどない。ダストドームもない。爽やかな晴天、最高のマラソン日和だ。

 桜田門から二重橋、大手門、東京消防ダストドーム庁前、九段と皇居の堀沿いに走る。国立近代美術館前までは、なだらかに登り。英国大使館のある一番町、千鳥ケ淵公園あたりから一気に下り坂。国立劇場前から、桜田濠沿いに走って桜田門広場に戻る。
 これを3回繰り返す。2周目からは、コースの起伏がよくわかったので、ペースは作りやすい。

図12

 コースは、3/1が平坦、3/1が緩い上り、3/1が桜田門までの下り。私のようなホドホドランナーには、ちょうどよいコースだ。
 大会をやっているのに、一般ランナーも大勢走っており、大会の選手とランナーの区別がつかないくらいだ。周回数を間違わないようしなければ、と思った。さすが、ここは、ランナーの聖地とも感じた。

 皇居周辺の庭は、きれいに手入れされ、周囲の景色もとても美しい。
 皇居の堀には、白鳥も含めてたくさんの冬の渡り鳥が飛来していた。その鳥達の家族も見ながら、2周、3周と走り、無事ゴールインした。
  ちなみに、記録は
     私 1時間14分41秒(15㎞)       妻27分14秒(5㎞)
  だった。
  速くはないが、快走だった。
 
 順位と記録は、ゼッケン番号とあわせて、素早く張り出されていた。
 15㎞のトップランナーは、55分を切っていた。早いランナーも多いが、マイペースでゆっくりと楽しんで走る市民ランナーの方が多かったようだ。
 それでも東京のど真ん中、それも皇居の周りを走るという感動と充実感があった。

 昔はこの付近に桜が多く、桜田濠と言われていた。
 桜田門といえば、1880年、井伊大老が水戸薩摩浪士の手にかかって暗殺された場所として有名だ。俗に「桜田門外事変」だ。

図13

 また、ここは、小田原街道の始点にもなっていて、古くは小田原口とも言われていた。
 私が住んでいるのは、山形県米沢市で、米沢藩の城下町だ。桜田門の真向いには、法務省があり、そこには、江戸時代、米沢藩の江戸藩邸があった。   
 江戸時代、米沢藩主達も、参勤交代制度のもとで、かつて、そこで生活した。
 皇居とその周辺は、そんな日本内外の歴史がぎっしり詰まっているところだ。言わば、観光のメッカだ。時間を使って、ゆっくりじっくり歩いてみたいとも思った。
 この年のラストレース、もう一度走ってみたい魅力ある大会だった。


6-4 東京シティロードレース(第3回)

                               夢の都心を駆け抜ける10㎞のレース
                ~ 首都のど真ん中を走ろう ~
                                                                               2004年5月16日(日)

 東京シティロードレースは、毎年5月中旬に開催され、2002年から2006年にかけて行われた市民マラソン大会だ。
 日本の首都、東京のど真ん中を走り、感動を求める、多くのランナーが集まってきた。
 日比谷公園をスタートし、国立霞ヶ丘競技場陸上競技場をゴールとする。ワンウェイコースだ。

図9


 当日は、東京都心の交通規制が敷かれた。
 コンセプトは、
「みんなで走る、みんなが輝く、みんなで支えあう共生社会を大切にしよう。」
 都民参加の手作りのマラソン大会、という意味が込められている。
 2002年が第1回大会で、この年は、3回大会だ。
 約5,000人の市民ランナーが、初夏の東京都心を駆け抜けた。

  <種目>
       一般の部     10㎞ 男女 4756人
      車いすの部     10㎞ 男女   288人
      視覚障害者の部   10㎞ 男女  60人
      知的障害者の部   10㎞ 男女   125人
      移植者の部             10㎞ 男女     19人
                       計 4988人

  <参加資格>
   ○ 大会当日16歳以上(高校生以上)の男女
   ○ 1時間40分以内に10㎞を完走できる人(1㎞を10分ペース)

 東京国際マラソン大会は、テレビでも大々的に中継される、日本の代表的大会だが、本大会は、そのマラソンの部のラスト10㎞を、コースとしている。

 日比谷公園から東京ドーム、四ッ谷を経て国立霞ヶ丘競技場へ至る、ワンウエイコースだ。スタートとゴールが違う場所となるから、荷物の移動が必要となる。

図1

 ランナーは、スタートの日比谷公園で、ナンバーカードをつけた袋に荷物を入れ、指示された集荷場に持参する。依頼した荷物は、ゴールとなる国立競技場のすぐ側にある、明治公園で受け取ることになっている。多くのランナー達は、大きな袋を手にして集荷場に移動する。
 スタート前のその光景は、まるで、プレゼントの入った袋を背にした、大勢のサンタクロースが会場にいるかのようだ。

図2

 約600人のボランティアスタッフが、協力を申し出てくれたという。5,000人が走る大会は、多くのボランティアによる協力が支えとなる。

 9時10分、スタート地点は既に交通規制に入っている。スタート前の集合がかけられた。5,000人という人の数に圧倒される。日比谷通りのスタートラインにつくと、主催者代表の挨拶が所々に準備されたスピーカーから元気よく響きわたった。その冒頭の一声だ。

「皆さん、おはようございます。」
 すると、集合している5,000人のランナー達が一斉に、
「おはようございます」
と返した。それが日比谷通りの街のなかに怒涛のように響き渡り、吸いこまれていった。
 大会会長さんの挨拶だ。
 「夢の都心を駆け抜ける、10㎞のレースです。みんなで走る10㎞、みんなが輝く、みんなで支えあう大会です。今日は、皆さんの力に応じた走りで、都心を駆け抜けて下さい。そして、素敵な一日にして下さい。」
 大きな拍手が送られた。一人一人の拍手が、また5,000倍になって東京の日比谷通りの街中に鳴り響いた。
 交通規制がしかれ、車の通らない都心の幹線道路、車の排気ガスもないから空気も清々しい。都心の道路が、ランナーのためにだけある、と思っただけでも爽快だ。

図7

 9時30分、日比谷公園前を車椅子の部がスタートした。9時35分で、その他の部門、すべてが一斉に走り出した。約5,000人のランナーが目指すのは国立競技場のゴールだ。時折り降る小雨が都心の緑を洗う。寒からず、暑からず。
 私も、妻と二人で肩を並べてゆったりと走った。何故かあまりスピードをあげようとは思わない。都心で仕事をしているわけではないが、いつになく道を踏みしめるように、浮き浮きして走っていた。
日比谷公園から約1㎞程走ると、東京駅前通過となる。美土代町、神保町からの白山通りを経て、山の手線のお茶の水、水道橋近くの跨線橋をくぐる。
 
 東京ドームが見えてきた。ドームが過ぎて飯田橋まで来ると、そこがちょうど5㎞の中間地点、残り半分だ。

 市ヶ谷、四谷、新宿通り、外苑東通りを経て国立競技場に入りゴールインとなった。

 本大会の終盤は、国際レースでも数々の名勝負を生み出した、上り坂コースだ。

 車椅子ランナーにとっては、その登りは、さすがに辛そうだった。もう少しでゴールなのに車椅子が思うように前に進まない。必死に車椅子を前進させようとするが、微妙な登りこう配が続く。すぐそばを通過する多くのランナー達が、大きな声援を送った。
「それえ、もうちょっとですよ。頑張って!」
「ゆっくりでいいから、ゴールまで行って!」
「登り切れば、後は大丈夫よ。」

図4

 前述したように、障害者も健常者も等しく10㎞を走る。視覚障害者の伴走ランナー達は、耳元で声をかけながら走っていた。

「さあ、あと50m程で信号です。そこで右折しますよ。」
「はい、直線がしばらく続きます。」

 私は自分が走って楽しんでいるが、伴走ランナーは、視覚障害者のために走っている。この役割もとても重要だ。

 コースは、国立競技場のゲートから場内のトラックに入ってくる。最後は、東京国際マラソンの選手となった気分だった。
 ゴール付近が、競技場のテレビの大画面に映し出されていた。ゴールした私も映っていたから、東京オリンピックを走っているようだった。

 ちなみに、記録は、
    私 52分 29 秒(10㎞)   妻 55分 58秒(10㎞)
 だった。

 最高齢者は90歳の田中さん、声援を送るスタンドの観客に手を振ってゴールした。田中さんへのインタビューが競技場の大スクリーンに映し出された。

「田中さん、お歳はいくつですか」
「歳ですか。いつの間にか90歳になりましたよ。」
「ええ?90歳ですか。90歳で10㎞を完走するなんてすごいものですねえ。」
「はい、この国立競技場のゴールがいいですよね、走るってほんとうにいいですねえ。走りは私の道楽ですよ。」
「これからの目標は?」
「現在90歳だから、もう10年、100歳まで、走りたいねえ。」
と笑顔満面の田中さん。

「・・・若い頃はね、ビジネスで走り回った東京都内ですよ。そのど真ん中を楽しんでゆっくり走るって、いいですよねえ。懐かしいですしねえ。ほんとに嬉しいですよ。」
と、70歳代程のランナー。

「若いときはね、自分が走ることを楽しんでいたんだけどね。まだ走れますから、視覚障害者の伴走を始めてみたんですよ。これ、走る力ないとね、できないでしょう。私はね、これからも伴走は何回でもするわ。これも走る楽しみですねぇ。覚障害のある方がゴールインするとね、『ありがとう』ってとても喜んでくれます。人のためになれるって嬉しいことですものね。これねぇ、ある程度走力がなければできないですから、自分もトレーニングしますよね。励みになるんですよねぇ。」
と言うのは、60歳代後半と思える伴走ランナーをしたおばさん。

 なお、視覚障害者の部の優勝は、アテネパラリンピック日本代表に決定していた高橋勇一選手だった。彼は、その年に開催されたアテネパラリンピックでもライバルをおさえて、見事に金メダルに輝いた。
 大会が終わって数日後、高橋選手のアテネへの取り組みの様子について、彼の伴走者も含めて、NHKが特集を組んで全国放送した。

 本大会は、2006年、第5回記念大会を最後に、東京国際マラソンと統合された。

 国立霞ヶ丘競技場は、陸上競技場改築のため2014年5月に閉鎖、その後、解体された。
 2019年(令和元年)12月21日、竣工の国立競技場と区別して、旧国立競技場とも呼ばれるが、ここでは、「国立霞ヶ丘陸上競技場」と表記した。

図5

 なお、東京マラソン2021について、新型コロナウイルスの感染拡大による、緊急事態宣言の延長で、10月17日開催を断念した。
 次年度の3月6日に延期されている。


6-5 熊谷さくらマラソン大会 (第19回)

         桜の名所を駆け抜ける
                    2009年 3月22日 埼玉県熊谷市
 埼玉県熊谷市は、埼玉県北部地区を代表する都市だ。荒川や利根川が流れ、水と肥沃な大地に恵まれ、豊かな自然環境の中にある。 

図16

 江戸時代には、中山道の宿場町である熊谷宿が置かれ、宿場町として栄えた。
 今では、熊谷市内には国道17号線をはじめ、JR上越新幹線、JR高崎線、秩父鉄道秩父本線等の鉄道が通っており、交通の要衝の地となっている。
 熊谷さくらマラソン大会は、この熊谷市で、毎年3月の第4日曜日に実施される。平成21年(2009年)は、19回大会だった。
 本大会は、日本さくら名所百選の一つとなっている熊谷桜堤をコースに入れ、「さくらのまち熊谷」にちなんで計画された。
 熊谷運動公園陸上競技場をメインスタンドとしている。

<種目>
      ハーフマラソン    10㎞     5㎞
               2.5㎞    1.5㎞   親子1.5㎞

 ランナーは関東一円から集まり、今回の参加ランナーは8,982名と発表された。市民マラソン大会としては、大規模だ。
 私達は、熊谷市内のホテルに宿泊した。参加通知書を持っていると、秩父鉄道熊谷駅とひろせ野鳥の森駅間が無料で乗車でき、また、JR籠原駅から無料送迎バスも運行され、多数のランナーが利用していた。
 特別招待選手は、東京国際女子マラソンで優勝、シドニーオリンピックで堂々の7位に入賞した山口衛里さんだ。

図13

 コースは下図のようだ。
 桜の名所を駆け抜けようという趣旨から、ハーフと10㎞は、熊谷桜堤沿いを走る。

図12

 私達も位置についた。
 ハーフは約5,000人、スタートした直後は、のろのろのと歩き、10分程して走りのリズムになった。 

図11

 桜は、3月の第4日曜日は、桜の開花宣言するか否かの時期となり、ちょうど満開の時に走ることのは難しいという。
 
 何とか、完走できた。
   ちなみに 私達は10㎞を走り、記録は、
       私 54分07秒   妻 60分05秒
   だった。

 走り終えて、小江戸川越向かう道を尋ねた。
「はい、この道路をまっすぐ行けばいいですよ。」
「どうもありがとうございました。」
「ところで、どちらからいらしたのですか?」
「はい、山形県の米沢市です。」
「あらあ、米沢ですか。よく知ってますよ。それは嬉しいですね。妻の親しくしている友達が、米沢にいましてね、時々車で行くんですよ。舟山病院ってあるでしょう。妻は、院長の奥さんが東京にいるときに知り合って以来、ずうっとつき合ってるんですよ。」
「あらあ、それはそれは、そんな人に声をかけたなんて、ほんとに偶然ですね。私達もラッキーでした。」
「私もそちら方面まで行くところです。どうですか、この車で一緒に行かれては?」
「あら、いいのですか。」
「ちょっと狭いですけど、どうぞどうぞ」
というわけで、帰り道は、米沢市をよく知っている方の車に便乗することになった。車中で、
「僕は、もう70歳になっちゃったんだけど、ほら、右の腕がないんですよ。19歳のときにね、右手を切断してしまったんですよ。その時はずいぶん落ち込みました。いろいろと悩んだんですけど、みんなに励まされて、こうして仕事できることが嬉しいんですよ。」
と、大きな障害あるにもかかわらず、70歳過ぎても、仕事もされているとのことだった。
 偶然だったが、大きな出会いだった。

  江戸時代には、江戸から川越まで運河が通じており、江戸からの農産物や文化が流入し、川越独特の小粋さが生まれたといわれている。
 太田道灌父子等によって川越城が築かれた。その後、道灌は家康の命により、江戸城を築き、川越の文化を江戸に移したともいわれている。

 明治26年(1893年)、大火があり、その後に再建された街並みは、旧城下町の中心部に位置し、それらは、国の重要文化財に指定されいる。
 川越の街を歩くと、重厚で情緒豊かな江戸時代の街並みにタイムスリップしたかのようだった。
 小江戸川越を訪れる観光客は、年間400万人を超えるという。私達が訪ねたその日も、多くの観光客で賑わっていた。

図18

 なお、2022年3月20日(日曜日)に開催を予定していた「第32回熊谷さくらマラソン大会」は、新型コロナウイルス感染症の状況や各種ガイドライン等を踏まえ、2021年と同様、やむを得ず中止することとなった。


次回は、「僕のランラン人生7 中部地方」の大会についてです。








  

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