見出し画像

第2節 米沢城下の主な町

2-1 上杉家臣団の組織に関わる町名

 米沢の城下町は、家臣団の組織や職業等によって区割がなされていました。

画像16

 図1-1は、米沢城下西側を示したものです。
 米沢藩初代藩主、上杉景勝の親衛隊、五十騎組という部隊に属していた人達が住んだ町を、五十騎町といいました。米沢藩においては、上級家臣団の三手組の一つとして幕末まで存続しました。五十騎町は、本丸西側の備えとして配置されました。図1-1によると、桂町にある堀立川橋右岸に沿った東側の地域となっています。図のように、西の盾の西側が片五十騎町、その西側が本五十騎町となっています。
 片五十騎町の城側には、「西の盾」と呼ばれる堀が設けられ、米沢城西側の万全の備えとしていたことがわかります。この堀の城側(図1-1上部側)の町が土手ノ内町です。
 現在では、米沢市松が岬1丁目、松が岬2丁目となっています。
 直江兼続の実父、樋口惣右衛門兼豊が直峰城主となった折、兼豊を支えたのが直峰衆でした。その直峰衆ゆかりの家臣達が住んだのが直峯町です。
 桂町にある堀立川橋南側の左岸側から、遊園地前の通りが直峰衆の町でした。ただし、米沢城下では山偏のない峯となっています。現在は米沢市城西1丁目です。
 図1-2における樋口家屋敷跡は、その樋口家が住んだ屋敷跡といわれています。

画像2

 直江兼続が与板城主となった際、兼続に忠誠を誓った家臣団を与板衆といいます。与板衆に関わる人達が住んだのが与板町です。(図1-1)与板町は、堀立川に架かる無足橋より南方の堀立川左岸側の地域で、現在は堀川町となっています。
 藩主の御膳献立を担当したのが御膳部です。その人達の住んだ町が御膳部町です。現在は、米沢市丸の内1丁目、二の丸堀の西側に沿った町となっています。
 武道に優れ、米沢城の御殿の警護を担当したのが御守組です。それら家臣達が住んだのが御守町です。御守組は、図1-2のように、文珠堂南前、法泉寺西側から堀立川に架かる御守町橋への南北の通りで、「法泉寺裏門前町」ともいわれました。現在は米沢市城西2丁目です。
 戦国時代の最強軍団の一つだった武田信玄の遺臣達の一部は、上杉を頼って米沢に住みました。その家臣団は信州衆とよばれ、屋代町に居を構えました。屋代町は、図1-3のように、山形県立米沢東高等学校、米沢市立興譲小学校の南側の通りで、現在では米沢市丸の内2丁目です。

2-2 米沢城周囲の主な町

 江戸時代の米沢城大手門は、本丸の堀に架かる舞鶴橋のところにありました。その橋を渡ると本丸となります。本丸を巡らす堀の周囲の一帯が二ノ丸となります。二の丸は、本丸の外側の郭となる領域を指します。

画像17

 城下絵図によれば、図2-1のように、そこには、勘定所、厩、味噌蔵、青苧蔵などが置かれていました。また、真言宗の寺町通りも配置されており、同じく、能化衆11、御堂衆9、合わせて20の寺院と御堂があったと記されています。
 三の丸には、藩の上級、中級家臣団の住居や公共施設が配置されました。
 大手門の東側の南北の通りが、藩の上級家臣の住む門東町です。この町名には、「城の門の東側の町」という意味も含まれているともいわれています。

画像18

 また、町奉行所、藩校興譲館、御国産所等の主要な公共施設も三の丸に置かれています。二の丸の堀に接する地域には、東堀端町、北堀端町、南堀端町等という町名が記されています。
 門東町から東側の堀を越えて、南北方向の通りは、商人の町、大町です。そこには、商人達が店を構え、城下随一の問屋街として賑わいました。

画像17

 図2-3は江戸道中絵図に描かれた大町(おおまち)の様子です。
 道路中央には生活用水路があり、その両側に住宅が建ち並んでいます。用水路近くには櫓(やぐら)と高札がありました。櫓は防火対策として各町内に置かれたものです。高札は掲示板のことで、ここに藩からの知らせが掲示されました。高札場は、「札の辻」とも言われました。1里塚の起点ともされました。ここから1里(約4㎞)毎に塚が設けられ、旅人の距離の目安とされました。図2-4は高札、図2-5は一里塚の例です。

画像17

2-3 寺町

 米沢の城下町には、寺町を城下東側と北側に配置し、それを敵からの防衛拠点としました。有事の際には、万年塔(図3-1)を移動させ、それを敵から身を隠す盾としたり、火縄銃の銃眼として機能するようにさせました。寺を並べた町を置き、それらを盾として、防衛の機能を持たせるようにしたのです。

画像18

画像18

 北寺町は、城下北部の商人町の外側にを配置されました。粡町、座頭町の北側通りが北寺町です。図3-2は、現在の米沢市北寺町です。
 図の中央上部には「城下町入口」と記されています。米沢城下北の入り口の所に北寺町が配置されたことがわかります。

画像7

 表3-1は、文化8年(1811年)当時の絵図に記された北寺町の寺院を一覧にしたものです。図3-1の現在の寺院と比較してみてください。
 図3-3-1、図3-3-2は、現在の東寺町です。東寺町は、商人町の東外側に配置されました。図3-3-2の右端には「城下町入口」と記されています。

画像18

 表3-2は、文化8年(1811年)の絵図に記された東寺町を一覧としたものです。図3-3の現在の寺院と比較してみてください。

画像9

 現在では、北寺町は米沢市中央5丁目、中央7丁目、東寺町は米沢市大町2丁目、大町3丁目となっています。
 また、上杉景勝、兼続の主従は、米沢城下の建設を進める際、米沢城本丸の東南隅に謙信の遺骸を祀る「御堂」を置き、そこに勤仕する寺院を、堀を隔てた二の丸に建てました。それらは、真言宗の寺院で、上杉家の菩提寺である法音寺、大乗寺の能化衆と呼ばれる11ヵ寺、御堂衆9ヵ寺、御堂を管轄する霊仙寺からなっていました。表3-3はそれらの寺院の一覧です。

画像10

2-4 馬の町

 江戸時代の米沢御城下絵図には、図4-1のように、白子大明神の北側に隣接して、「馬場」と記載されています。そこには、面積2町5反とも記してあります。これは、約1.5haの広さということです。

画像18

 図4-2は、現在の米沢市の地図に馬場を示したものです。
 南北に長く、白子神社と清水町に挟まれるように配置されていました。
 ここは、藩主や上級家臣が馬の練習場とした所といわれています。その馬場内には、「鉄砲山」とも記されています。ここで、鉄砲の稽古もしたのでしょう。
 馬場に併設して、厩(うまや)の記載もあります。ここは、 現在の米沢市城北1丁目、2丁目の位置で、清水町(旧町名)に隣接しています。
 
 林泉寺東側には、「馬口労町」と記されています。馬口労町、本馬口労町、本馬口労町西ノ町、本馬口労町裏町の4つの通りがあります。
 馬口労の語源は馬喰(ばくろう)ではないかといわれています。馬喰とは、馬の善し悪しを見る人、または馬の病を治療する人達のことでした。中近世になると牛馬の売買やその仲介を業とする人達のことも含んでいたようです。
 江戸時代には、馬は、参勤交代の際や、米や商品の移動等には欠かせませんでした。町では、その季節が来ると馬市が行われました。市の開催が近づくと,宮城、新庄などから馬喰が馬を引いて集まってきました。仲買人は、越後や遠く関東からもやってきたといいます。馬口労町から南町にかけての民家が、馬喰達の宿になったともいわれています。

画像19

 図4-3は、昭和53年(1978年)に編集された山形県米沢市の旧町名に関する図です。図によると、山形大学工学部は、馬口労町があった場所に建設されていることがわかります。かつての馬口労町は、大学の北側に残っていることになります。馬口労町は、現在の米沢市城南2丁目、4丁目の位置となっています。
 また、図4-3によると、米沢城の南側には、北谷地小路と南谷地小路があり、その2つの町に夾まれた通りには、「馬場ノ町通り」と記されています。道路幅も広くとられ、ここでも馬の練習が行われたといわれています。 
 北の馬場に対して、こちらは南の馬場ともいわれました。現在の米沢市城南3丁目です。

2-5 原方町

 慶長6年(1601年)、上杉藩は、置賜、伊達、信夫、30万石に減封されました。約6,000人を超える家臣団と、その家族も含めて3万人を超える人達が、厳封された領地に生活することになります。
 そのうち、約8割は下級家臣団で、米沢においては、その多くは、米沢城下内に住むことができませんでした。それらの人達は、城外の荒蕪地に住居を作り、半農半士の生活を強いられました。そのような地域を原方町、あるいは原方集落といい、そこに住む人達は原方衆といわれました。

画像18

 原方衆の住んだ地域を、図5-1に示しました。彼らは、開墾をしながらの貧しい自給自足の生活を強いられました。しかし、有事となれば刀と鉄砲も持って、上杉藩の武士として戦いに備えました。

 それぞれの集落は、次のようです。
 一つは、図5-1のA、Bの地域、花沢町です。図5-2では、A、Bの地域です。現在の米沢駅の北側地域で、駅を挟んで東側と西側に位置しています。駅西側が米沢市上花沢町で、駅東側が米沢市下花沢町です。
 二つ目は、図5-1のC地域、山上町です。図5-3では、Cの地域としました。ここは、城下より南東部の山上村に通じる通りで、山上通町、山上裏町の2つの地域からなります。現在の通町一帯の地域です。 

画像14

 三つ目は図5-1ではD、Eの地域です。米沢城下より南部にある、長手新町、六十在家、南原、猪苗代町の地域となります。現在は、図5-4のように米沢市立南原小学校周辺地域になります。また、そこには旧会津街道も通っています。

画像15

 四つ目は城下西方の舘山地域です。図5-1ではFの地域です。舘山町は米沢城下の西側に流れる大樽川右岸地域になっています。現在は米沢市館山1丁目から5丁目までです。図5-5は文化8年(1811年)絵図に記された館山地域です。

画像18

 花沢地域は仙台口、南原地域は会津口、山上地域は板谷口、館山地域は西方からの敵に備える町となりました。
 原方の町に住む人達は、自給自足の生活を強いられながら、米沢藩の武士としての誇りを持ち、敵の襲来にも備えたのです。

次回は、「第3節 米沢藩の水」についてです。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?