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第8節 置賜地域の鉱山

8-1 西吾妻鉱山

 山形県米沢市にある西吾妻鉱山が始動したのは、昭和12年(1937年)のことでした。鉱口は、米沢市の天元台スキー場の第一リフト付近で、主に硫黄を産出しました。(図1-1)

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 昭和12年(1937年)、日本と中国との全面戦争となった日華事変が始まり、戦いは8年間もの長きに渡りました。戦いが長引くほど硫黄等の軍需品が大量に必要とされるようになりました。
 一時は、硫黄の月産が数百tfを超え、従業員も500名以上に急増しました。昭和15年(1940年)から、鉱山労働者の住宅や製錬工場が増設され、診療所も作られました。天元台は、坑夫とその家族を合わせて1,000人を超えるようになっていました。
 子ども達も多数いましたから、天元台には米沢市立関小学校大笠分校が開校し、鉱山労働者の子供達はそこで学ぶことになりました。
 また、鉱物輸送のための架空索道も袈設されました。それは、天元台から関根駅までの約11kmに及ぶものです。米沢市街地からは、白布高湯温泉までの定期バスも運行されるようになります。

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 最盛期は昭和32年(1957年)の頃です。硫化鉄鉱、約12,000tf、精製硫化鉄、約5,000tfを産出したと記されています。表1は、鉱山の生産量の推移です。
 また、図1-2は、昭和16年(1941年)頃の西吾妻鉱山の様子です。

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 しかし、火力発電所の燃料が、石炭から油に移行される時代になると、原油の脱硫工程で産出される化学硫黄が広く使用されるようになります。それは、低コストで純度も高いため、各地の硫黄鉱山は閉山に追いやられてしまいます。このような時代の変化に伴い、昭和36年(1961年)7月、西吾妻鉱山も、ついにその歴史を閉じることになります。
 一方で、鉱毒による河川水や土壌の汚染問題は、鉱山設立のときから発生していました。特に南原の農業被害が深刻でした。
 図1-3のように、鉱滓は天元台の明道沢上流の渓谷を埋めるようにして放置されました。立方メートル立方mという膨大な量です。
 これら鉱滓は、降雨の度に流出するため、その下流側地域に深刻な影響を及ぼすようになっていました。

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 このような問題を解消するために、通産省所管(現在の経済産業省)による、休廃止鉱山鉱害防止事業が実施されることになります。西吾妻鉱山については、昭和46年(1971年)から開始されました。
図1-4は、山形県による工事概要図です。

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 鉱害発生源対策と、抗廃水を処理するという2つの面で進められ、具体的には次のようでした。
 「西吾妻鉱山は、鉱毒水の発生源が坑道なので、坑道を閉塞し、溜まった水はオーバーフローさせ、水質改善してから流下させる。また、鉱滓堆積場は、整形し、雨水や地下水による浸透水を減量するために覆土し、必要に応じて植栽等もして排水路を設置する。浸透水、表面水が流入すると考えられる渓流や河川は、その側壁、河床を三面張して地下浸透をさせないよう施す。すべての鉱毒汚染水は、抗廃水処理場に流入させ、完全に処理し、河川に流出させる。」
 図1-4によると、鉱滓堆積場の表面保護と除毒施設の機能回復をはかるものとなっています。具体的には、法面と地表面を保護し、排水路を設置し、ボーリング工を施すものとなっています。完成年を昭和53年(1978年)までの7年間の工期とされました。
        水路工:1,989 m2 
      道路補修:2,835m2 
         浸透工(ボーリング工等):80本
      鉱滓堆積場の表面と法面保護工:54,681 m2
                 総事業費 783,470,000 円
 
 このように、西吾妻鉱山には、いろいろな対策が講じられてはきました。
 しかし、昭和42年(1967年)に発生した羽越豪雨の際には、これらの施設、設備に大きな被害を受け、鉱毒水の渓流への混入が続き、松川の水は、相変わらず顕著な改善ができないまま、現在に至っています。

8-2 八谷鉱山

 八谷鉱山は、国道121号線、大峠トンネル米沢側入り口前から左手に降りて、川沿いの道を昇り、約4km程行くと抗口が見えてきます。

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 八谷鉱山の歴史については、明治20年(1887年)頃開坑、昭和27年(1952年)に三菱金属鉱業が買収、昭和28年(1953年)に只見鉱業に移管、昭和31年(1956年)には尾富鉱業に移管される等、経営者が変更がありました。
 昭和35年(1960年)には、坑内地下選鉱場(図2-2)が建設されました。それは、延長70mにも及ぶものであり、月産4,000tfの大きな処理能力を持つ画期的なものでした。
 昭和40年(1965年)6月には、金、銀の鉱脈も発見され、月産約800tf、48年(1973年)には約1,500tfの金、銀鉱石を産出するようになっていました。また、鉛や亜鉛鉱も月12,000tf以上も産出し、工場内で処理されました。坑道の総延長は、30㎞にも達していたといわれています。
 昭和50年(1975年)頃が最盛期で、粗鉱で約132,000tfを産出し、その頃の従業員数は、200人を超えていたともいわれています。
八谷鉱山の盛んな頃には、国道121号に沿う田沢地区、大荒沢等周辺には宿泊所が置かれ、米沢市内にも会社寮がありました。社員達は、八谷鉱山通勤専用のボンネットバスで送迎されました。
 しかし、その後、円高等や国際的な金属市況の低迷等により、昭和63年(1988年)3月2日、鉱山は閉山しました。
 図2-3は、鉱山抗口と、その内部坑道の一部です。

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 閉山後も鉱毒水が小樽川へ混入し、鬼面川水系まで影響を及ぼす鉱毒水問題も発生しました。現在では、(財)資源環境センター八谷事業所が、廃止鉱山の一角に整備した排水処理施設を稼働させています。

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 また、米沢市も、毎年小樽川の水質調査をしています。平八沢橋、黒森、萓(かや)黒森(くろもり)、水沢原橋、湯ノ花橋の5箇所を調査地点とし、水素イオン濃度、カドニウム、砒素等の14項目の含有量を調査し、結果はインターネットでも公表しています。継続した排水処理の結果、現時点では、基準値を超えるものは特に指摘されていません。
                 (参考にした資料:米沢市史現代編)

8-3  唐戸屋鉱山

 図3-1は、唐戸屋鉱山の位置についてです。唐戸屋鉱山は、米沢市大字簗沢山梨沢、唐戸屋沢上流部にあります。山形県米沢市内からは12㎞程の西方に位置します。

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 明治39年(1906年)に操業し、その当時は、主に銅、亜鉛鉱石を出鉱していました。その年は、毎月、亜鉛精鉱が300tfから400tf、銅精鉱が100tfを安定して産出したと記されています。
 また、その年の1月26日に発行された有為会誌161号には、次のように記されています。
「鉱山から赤芝までと、赤芝から米沢駅までの間は、三沢村付近の人夫を使い、日々、数百叺(かます)を輸送することになった。その結果、同村付近の小野川、簗沢、田沢、赤芝、館山等に住む人達は、農業の余暇を活用してその運搬に従事し、日々賃金を得て安定した生活ができるようになった。大量の亜鉛鉱を産出し、それらは鉄道輸送されることになった。米沢駅では毎日、貨車20余台を準備した。駅開設以来の出来事だった。」
 明治42年(1909年)になると、浮遊選鉱法を採用し、年間2,800tfの産出量を誇るようになりました。

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 図3-1のように、山梨沢は、鬼面川貯水池近くを流下して、大樽川に合流する渓流です。唐戸屋鉱山で働く人達とその家族は、その渓流に沿うように集まってきました。
 明治27年(1894年)には、三沢東部小学校山梨沢分教場が開設されていましたが、鉱山労働者が急増したことにより、明治41年(1908年)、校舎も新築し、4年生までを収容する常設分教場となりました。

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 一方で、大正2年(1913年)の米沢新聞には、「唐戸屋鉱毒問題、鬼面水系地域に被害深刻」という記事も掲載されています。裁判問題まで発展しました。操業しながらも、一方では、鉱毒水問題も発生していたのです。
 満州事変や第2次世界大戦が終わると、これらの鉱物資源の需要も激減します。鉱山は、昭和47年(1972年)に閉山しました。
 米沢市では、現在でも、唐戸屋から太田川の太田川橋までの区間についての水質調査をし、その結果を公表しています。幸いなことに、すべての項目において、環境基準値以下となっています。

      参考にした資料:山形県史(近代第4~5巻)、米沢市史近代編

8-4 北条郷鉱山

 北条郷鉱山というのは、図4-1のように、宮内、梨郷から荻地区一帯にあった鉱山をいいます。

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 その歴史は、伊達家が置賜地域を治めていた時代にまでさかのぼります。伊達家第17代当主政宗の時代にも、金、銀は重要な資産でした。伊達家の金銀は、北条郷鉱山がその主な産地だったといわれています。正宗が岩出山城に移封になった折には、それらの抗口を土で埋めしまったといわれています。
 上杉の時代になっても、藩の重要な鉱山とされていました。寛永15年(1639年)から16年にかけての検地帳には、「金掘り御引地」という記載があります。これは、金を掘っている土地なので税を課さない地という意味です。その場所は20箇所程あり、露頭で砂金を発見したり、露天掘りで採取したものもあったいわれています。

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 図4-2は、江戸時代における北条郷鉱山の位置と産出鉱物を示しています。金銀山として全盛をきわめたのは、松倉鉱山(後の神明鉱山)が寛永年間(1624年~1644年)、日坂鉱山は元禄3年(1691年)の頃、荻金山は寛延3年(1750年)の頃、といわれています。
 北条郷の鉱山開坑の噂さが流れると、全国から鉱山労働者が集まり、周辺の百姓家までが貸家になったといいます。貸屋では間に合わず、長屋も作られました。それを千軒長屋といいます。金松原地区には谷地小屋千軒、赤山地区には熱田千軒、新屋敷地区には加賀沢千軒、筋地区には笹小屋千軒が作られました。図4-3には、それらの位置関係も示しました。
江戸時代の鉱山労働者は、単心で現地に入りましたから、その住宅は一人住まい用で、簡素なものだったようです。長屋は、間口2間、奥行2間半の棟割長屋です。流しと土間に2畳分、残る八畳に家財道具をおき、8人ずつ住むようなにっていました。それらが坑夫の人数分が確保できるように、建てられたことになります。
 4つの千軒集落の中心地に鉱山労働者が集う酒町がありました(図4-3)。文字通り、いっぱい飲み屋の並ぶ町です。遊郭等も置かれていたといわれています。荻地区には、今でも酒町という地名が残っています。
 しかし、幕末から明治初期にかけては、金銀の量は減り、銅や鉛等と主な鉱物となり、衰退して行きます。
図4-4は、現在の南陽市荻地区にある酒町の様子です。ここは、かつては、鉱山の町の中心地として栄えましたが、今では、人口減少と高齢化が進んでいます。

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     参考にした資料 南陽市史中編、北條郷鉱山史話(今野竹蔵著)

8-5 吉野鉱山

 明治34年(1901年)、吉野石膏山で石膏を採掘、精製したのが、石膏ボードで有名な吉野石膏です。
 吉野石膏は、大正7年(1918年)、東洋一といわれる精巧な機械をアメリカから輸入し、精鉱を実施しました。生産量もその頃が最盛期となり、従業員は800名を超え、下請け企業も含めると1000人規模だったといわれています。
 社宅や飯場が軒を並べ、その近くに各種商店や飲食店等が続々と建ち並びました。しかし、第一次世界大戦が終結した2年後の大正9年(1920年)になると、あっという間に不振に陥り、休山となってしまいます。 
 その後、吉野石膏は、昭和30年(1955年)、選鉱場を新たに建設し、吉野鉱山は再び飛躍的な発展の時期を迎えます。当時、荻小学校の校長だった今野竹蔵氏は、著書、「北条郷鉱山史話」の中で、次のように記しています。

 「荻小学校には毎日のように転入児童があいついだ。吉野鉱山では学校との連絡係をおいて、子供と保護者を学校に案内してきた。転入手続きや、教科書の手配など、学校もその業務に追われた。校舎の増改築もしなければならなくなった。」

 図5-1は、当時の選鉱場、図5-2は、吉野鉱山抗口の様子です。

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 鉱山周辺には、日鉱事務所や日鉱会館、1戸建や2戸棟続きの社宅が、三十軒程も作られました。ここは、かつての谷地小屋千軒とよばれたところですが、新たに、緑ヶ丘と名付けられました。
 
 その後も日本鉱業㈱が鉱区を統合し、操業を続けましたが、昭和48年(1973年)には、河川の酸性化、カドミウムの流出などによる土壌汚染等の公害問題も発生し、昭和50年(1975年)、休山に追い込まれました。
 山形県は、南陽市のガドミウム土壌汚染調査を昭和48年(1973年)から開始し、昭和53年(1978年)には事業計画を確定しました。そして、土壌改良対策事業が開始され、昭和63年(1987年)、竣工しました。。対象面積212.2ha、工事費42億5千万円でした。
 現在では、田畑は地力を回復し、坑廃水処理場も設置されています。抗廃水処理地区は、本山と日坂の2地区に分けられ、酸性水の中和作業は24時間体制で実施されています。今では、吉野川には魚も住めるようになっています。
図5-3は本山廃水処理場、図5-4は、日坂地区に建設された長ケ沢中和処理場です。

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 現在の吉野石膏㈱は、ブランド名「タイガーボード」で広く知られており、東京に本社を置き、資本金34億円、従業員数900名、売上高は1000億円を超える大企業となっています。
 現在は、鉱山跡地付近には、吉野石膏による「吉野石膏の森」、JX金属による「日鉱 里山、龍樹の森」という憩いの山林が作られています。
         参考資料:北条郷鉱山史話(1982.6出版今野竹蔵著)等


これで、「置賜(おきたま)の地域づくり」が終了します。

次回は、「僕たちのランラン人生」です。

私達二人が参加した、国内、国外の市民、町民マラソン大会、その体験を中心に編集してみました。


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