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第4節 米沢に通じた江戸時代の道

4-1  奥州街道と羽州街道

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(1)羽州街道
 図1-1が羽州街道の経路です。図のように、羽州街道は、奥州街道との分岐点ともなる桑折宿(福島県伊達郡桑折町)が起点となります。桑折から小坂峠や奥羽山脈の金山峠を越えて出羽国(山形県と秋田県)に入ります。
 宮城の七ヶ宿、上山、山形、新庄、秋田と進み、青森の油川でまた奥州街道に合流します。途中、上山や山形、天童、新庄、久保田、弘前の城下町を通っていました。延べの距離は約497kmです。
 米沢藩の参勤交代の道は、板谷街道から羽州街道に入り、奥州街道を上って江戸に至るのが主な経路でした。歴代の米沢藩主の参勤交代は、これを唯一の道路として米沢と江戸を往き来したことになります。

(2)奥州街道
 図1-2が奥州街道の全経路です。五街道としての奥州街道は、正式には奥州道中ともいいます。それは江戸幕府道中奉行の直轄下にあった白河以南を指しており、道中には27の宿場が置かれました。
 幕府が定めた奥州街道は、日本橋から宇都宮までが日光街道と重なり、さらに宇都宮から福島県白河までをいいます。その間、14宿が置かれました。
 白川から先は、それぞれの藩が管理する道路となり、図のように、青森の三厩(みんまや)までの全行程を指して奥州街道ということになります。白河以北は、伊達藩等の管轄となっていました。
 奥州街道を参勤交代の道として利用したのは、松前、奥州、羽州の大名だけでも29家あります。それに北関東などの大名も加わると非常に多くの藩が利用する重要な道路でした。
 多くの文人墨客も奥州街道を歩いています。蝦夷地(北海道)へ向かうにはこの街道を通らなければならなかったということになります。
 江戸時代には江戸と陸奥国、さらには蝦夷との物流が増加しつつありましたが、白河はその中継地点として賑わいました。奥州街道沿線では、白河は、下野国宇都宮に次ぐ人口を擁する活気あるまちだったといわれています。
 明治以後になって、東京から青森間の奥州街道は、「陸羽街道」として整備され、後の国道4号線の基となります。
 参勤交代時には、奥州街道沿いの大名は、一路奥州街道を南下し、それぞれに江戸に向かったのです。
 なお、奥州街道の全行程は約827kmとなります。

4-2 板谷街道

 板谷街道は、図2-1、図2-2のように、現在の奥羽本線の米沢、福島間に沿う経路で建設された道路です。

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 福島城下側からは、庭坂、李山、板谷峠、米沢城下を経て、さらに、赤湯、上山城下に至るところまでが板谷街道です。板谷峠を越える道筋であることから、この名称で呼ばれるようになりました。
 街道は、福島で奥州街道に合流しますから、それは、いわば、陸奥と出羽を結ぶ街道でもありました。
 米沢藩30万石時代には、藩領は、吾妻山脈を境に置賜、伊達、信夫の3郡にまたがっていたため、板谷街道は、これら領地を結ぶ重要な道路となっていました。また、藩の参勤交代の折には、欠かせない道路でもありました。
 明和6年(1769年)、上杉鷹山の米沢初入部も、約200人の家臣団を従えて、板谷宿に宿泊し、翌朝、米沢城下に入りました。鷹山が19歳の時でした。
 図2-3は江戸道中絵図に描かれた大沢宿、図2-4は板谷宿です。このように、街道沿いの宿場町も繁栄しました。

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 米沢から江戸までは、約80里(約320㎞)ありますから、平均して6泊7日の移動時間が必要でした。参勤交代は大人数でしたから、宿泊料等の費用は、藩にとって大きな負担となりました。
 米の特産物の移出も頻繁で、経済的にも重要な道路でした。中でも、米沢藩の特産品となった青苧(あおそ)、絹織物は、主に板谷街道を通り移送されました。そのため、念入りな整備と管理も図られました。
 江戸時代が終わり、明治13年(1880年)には、山形県令、三島通庸によって第一世代栗子道が整備されると、板谷街道は急速にさびれてゆくことになります。

4-3 旧会津街道

 図3-1は、旧会津街道の経路を示したものです。この街道は、かつては、米沢と会津若松を結ぶ山岳街道でした。米沢から会津に向かう時は会津街道ですが、会津から米沢に向かう時は、米沢街道ともいわれました。
戦国時代から江戸時代までは、若松城下と米沢城下を結ぶ重要な道路でした。関ヶ原の合戦で敗軍となった上杉藩は、慶長6年(1601年)、総勢3万人を超える家臣団と共に、若松城下から米沢へ移動しました。2009年のNHK大河ドラマ「天地人」でも、旧会津街道を大移動する上杉軍の様子が脚本化されました。

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 同じく、2013年のNHK大河ドラマ、「八重の桜」の主人公、新島八重は、戊辰戦争で会津が政府軍の攻撃を受けた折、この街道を通り米沢に一時避難しました。米沢藩士の内藤新一郎宅に身を寄せて暮らしたことが知られています。
 江戸時代の会津街道を、米沢からたどってみましょう。
 米沢城下の大町の札ノ辻から南に進み、馬口労町の南端にある枡形から城外に出ます。そこから笹野、李山へと進みます。李山は、現在の米沢市立南原小学校の地域となります。さらに南進し、船坂峠を越えて立石に至ります。大梓川を渡り、関町、綱木宿に至ります。ここまでが出羽国です。
 綱木から少し進んで陸奥の国となります。桧原を過ぎて、大塩、熊倉、塩川の宿、最終は、湯川村を経て会津若松に至ります。
 この街道は、会津方面からは出羽三山や湯殿山へ参詣する人々が利用し、米沢からは柳津(福島県河沼郡柳津町)を参詣する人々等も通りました。
 しかし、明治15年(1882年)、福島県令となった三島通庸が会津三方道路を開通させたことや、明治21年(1888年)の磐梯山大噴火によって桧原村が水浸したことなどから、桧原峠越えの街道は、現在、廃道となっています。
 この会津街道があった江戸時代から明治時代の頃までには、宿場町も栄えていました。表3-1は、かつてあった主な宿場町です。

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4-4 越後米沢街道

 図4-1、図4-2は、越後米沢街道の経路を現在の地図上に示したものです。越後米沢街道は、米沢側からは、米沢、小松、手ノ子、宇津峠、小国を経て新潟県の関川村に至る約70㎞の旧街道のことです。

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 国道113号は、明治17年(1884年)に開通しましたが、それまでの約360年間は、物流のための重要な道路が越後街道でした。路線は山間地が多く、この中に13の峠があることから、その一帯は、「十三峠」と呼ばれるようにもなりました。図4-3は「十三峠」を示したものです。

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 その中でも、「黒沢峠」(図4-4)の敷石道がよく知られており、当時の歴史や文化を忍ばせてくれます。現在の横川ダム近くを通ります。その他の多くの峠で趣向を凝らしたイベントが開催されています。

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 越後街道は、大名の参勤交代用の道路ではありませんでしたが、米沢藩においては、当初、岩船が西端の預地であったこともあり、関川村より先の岩船と米沢城下を結ぶ重要な街道ともされていました。特に、幕府より海岸警備が命ぜられると、藩士の移動は、この街道を中心に計画されました。
 越後街道に沿う関川村の豪商、渡辺家と米沢藩とは、深い関わりがありました。渡辺家は米沢藩へ多大な融資を行い、藩財政にも参画していたといわれています。藩からは400石の知行を与えられていましたから、米沢城下と渡辺家との行き来にも欠かせない重要な道路でした。
 戊辰戦争の際にも、米沢、新潟を結ぶ重要な街道となりました。
 また、明治11年(1878年)には、イギリスの旅行家イザベラバードが新潟から北海道に向かう際に、この十三峠を通りました。その際、バードは、米沢平野を「アジアのアルカディア」と称したことでも有名です。

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 現在では、近代的土木技術を結集して作られた国道113号線が通っており、それは、日本海沿岸東北自動車道に結ばれます。米沢から新潟まで、車で約2時間で行けるようになっています。

4-5 西山新道

 西山新道とは、図5-1のように、長井の宮、小出より、野川口、小国の五味沢を通り、村上、岩船に至る街道です。もともとは、直江兼続の命により、木樵(きこり)や山伏の通る山道を修復開削して開発されたものといわれています。越後街道に並行する道路となっています。長井から岩船港までは約76㎞の道のりです。

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 日本海沿からの塩を運ぶ「塩の道」、米沢藩からは絹を運ぶ「絹の道」ともいわれました。図5-1には、「絹の道、西山新道」と記されています
 江戸中期以降の長井は、小出、宮を中心にする舟運のまちとしても栄え、米沢藩の流通の拠点でもありました。しかし、幕末の慶応2年(1866年)の頃には、凶作が深刻となり、物価も著しく暴騰しました。米価が値上がりし始めると、輸送単価が割安だった船代も高騰し始めたのです。そこで、長井の商人達は、総工費の7,000両を出資し合い、西山新道を再建させることにしたのです。幅員は約1間(1.8m)、要所要所には、荷物を背負った牛がすれ違えるようにするための「牛除け」が設けられました。約40か所あったといわれています。また、天候の悪い時に避難する「助け小屋」も3箇所設けてあれました。
 ところが、新道が開通してわずか2ヵ月後の慶応3年(1867年)10月、大政奉還となり、徳川幕府は終わりを告げたのです。そして、明治元年(1868年)、戊辰戦争が始まりました。
 「官軍が、西山新道を通って攻めてくるぞ~!」
 地域の人々は、越後境に土手を築き、新道に架かる橋を落とし、大木を切り倒して道を塞ぐなどして、官軍の襲来に備えました。しかし、官軍は新道を通らず、越後街道を通って米沢に入ったのです。明治元年(1868年)8月28日、米沢藩は降伏しました。
 長井の商人達が開拓した西山新道は、このようにして僅かな期間で終わってしまったのです。
 図5-2には、西山新道と越後街道の位置関係を示しました。

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次回は「第5節 街道史話」についてです。

 

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