僕のランラン人生4 山形県1
<山形県米沢市、飯豊町、川西町>
4-1 白布マラソンOB大会
~ 秋の白布街道を走ろう ~
平成15(2003年)年9月 山形県米沢市
「白布高湯マラソンを、もう一度走ってみませんか。」
というお誘いがあった。
「白布マラソンOB大会」というのは、山形県立米沢興譲館高校OBによる学年対抗駅伝大会のことだ。
白布高湯マラソンは、米沢興譲館高校(山形県米沢市)の恒例行事だった。
米沢興譲館は、1776年(安永5年)、米沢藩第9代藩主、上杉鷹山が藩校として開設した。藩校としての歴史は230年あり、新制高校になってからでも100年以上の歴史を刻んでいおり、地域の伝統校として相変わらず有為なる人材を輩出している。
この大会のコースは、旧興譲館高校(米沢市西大通り2丁目)から、白布高湯温泉に向かう白布街道(米沢猪苗代線)の「高橋」という地点までだ。
男子はこの全コースとなる17㎞、女子は約半分、8㎞を走った。ただ、当時は、女子は非常に少なく、クラスには3、4名程しかいなかった。
その時期がくると、大会の1ヶ月前頃から準備をしたものだ。何せ、17㎞は長距離だ。ハーフマラソンに近い。だから、途中で歩き出す人も結構いた。
男子コースの上位でゴールインするのが、サッカー部、陸上部、バスケットボール部等の、日頃持久力を鍛えている運動部の生徒達だ。
ゴールすると、そこから白布高湯温泉まで歩き、一泊した。修学旅行を実施しない高校だったから、この大会は、友達と宿泊する唯一の行事だった。夜は温泉につかり、キャンプファイヤー等をして友情の絆を深めあった。
さて、その懐かしい白布マラソンを走るにあたって、私達の学年チームを作らなければならなくなった。走れそうな人達に電話をしてみると、いろいろな事情が伝わってきた。
「腰をやられちゃってねえ、ちょっと無理、走るのは任せた。」
「いやいや、血圧が高くてねぇ、上が180もあるんだ。走ったりしたら、それこそ他界するよ。」
「頼むから俺だけは外してくれ。」
など、反応は鈍い。
何とかチームができたな、と思っていたのだが、2、3日前になって電話がかかってきた。
「すまん、あれからな、その気になって練習したんだよ。それが、やりすぎてよ、足がおかしいんだ。すまないが、俺を外してくれ。張り切り過ぎよなあ。すまん。」
確かに今は、50歳代の半ばになっている。そのうち還暦の歳になる。
あらためて
「いい年になってきたんだなあ」
と痛感する。
昭和41年(1966年)卒業チームは、「よい(41)の会ランナーズ」ということになった。ゼッケンもユニホームも作った。声をかければ多忙と言いながらも、チームは何とか作ることが出来た。
相田治孝、五十嵐栄、片桐嘉和、来次秀明、木村政信、香坂文夫、酒井彰、鈴木雄一、手塚宮雄、内藤文徳、仁科盛之、登坂通彦、山口末広君達がタスキをつなぐことになった。
当日、スタートとなる母校跡地(現在、すこやかセンター)での開会式に臨んだ。
高校の同窓生といいながらも、学年も世代も違えば、わからない人達が多い。あらためて、簡単な自己紹介があって、少しお互いがわかってきた。
「やっぱり、ちょっときついよなあ。すぐに歩くかもねえ。」
「今日は、東京から来たんですよ。定年退職しましてね。今は走ることが楽しみなんですよ。」
「ゴールした後の、温泉とビールね、今日はこれが楽しみですねえ。」
等々、皆さん、高校時代に戻ったかのように楽しそうに話している。
奥さんや子供達の応援隊がついている人もいる。孫まで連れてきて、
「じいちゃん、今日は、頑張るぞ。」
などと、楽しそうだ。
そして、それぞれの学年の第1走者がスタート地点に集合して、
「それじゃ、スタートして下さい。」
という合図でスタートした。
学年毎に、第2走者、第3走者とタスキを繋いで行く。学年毎に人数も違うから、中継点もそれぞれだ。
学年毎に、昔を懐かしんで走り、どの学年も無事ゴールした。
ゴールして、高校時代に泊まったその宿で、温泉につかり、ビールで乾杯だ。そこで懇親しているのは、同じ学舎、米沢興譲館高校で学んだ仲間達だ。
会社員、会社経営する人、医師、歯科医、そして教員等々、それぞれに、社会の一員として活躍している。
しかし、懇親会は、この17㎞をかつて走り、今日も走ったというだけで、青春時代を懐かしみ、話に花が咲いた。
以来、走るメンバーは少しずつ減ってはきたものの、私達の学年は、何と19年の間、連続出場することになった。
2021年には、「41の会ランナーズ」も74歳となった。
20目目の出場は難しそうだ。
ましてや、最近では、コロナ禍の中にあるため、大会の開催が出来なくなっているのが残念だ。
2021.12 記
4-2 おしょうしなマラソン大会(第2回)
~ 雪の中のありがとうマラソン ~
山形県米沢市 平成14年(2002年)11月4日
山形県米沢市が主催するお「しょうしなマラソン大会」は、11月4日に開催された。
「おしょうしな」は、「ありがとう」という意味の米沢の方言で、それを大会名にしたものだ。
私が参加したこの年は、第2回大会だった。大会当日、早朝から冷たい雨が降っていた。11月初旬だが、上空に寒気団があり、低気圧にもなっているという天気予報だ。気温は、朝6時で2℃。これで走ったら、雨にも濡れて風邪をひいてしまいそうだ。大会は小雨決行だ。
地元の大会だから、車で会場に行って様子をみることにした。早朝6時半頃の会場には、すでに関係者が開会の準備をしていた。皆さんは、冬の防寒具を着て、天気を心配している。スタート、フィニッシュとなる陸上競技場のトラックは、すでにグシャグシャになっている。
何と、みぞれ混じりになってきた。しかし、空は少しばかり明るくなってきたような気もした。
「よし、晴れてくるだろう。走れるな。」
と、自分に言い聞かせて、一端、家に戻り、走る準備をした。
会場に行ってみると、陸上競技場は、さらに白くなっていた。米沢市が11月初旬に雪になることはめったにないこと。だが、今日は、どうやら初雪のようだ。
これでは、ウォーミングアップもしにくい。外にいれば身体が雪に濡れるし、やけに寒い。私の車についている外気温度計は、-1℃を表示している。
私の勤務している高校の、野球部や陸上部等の生徒も、部活動として、この大会に参加している。外は零下であるから、引率の同僚職員達は、防寒着を着用して大会に臨んでいた。
「少々の雪は気にするな、完走しろよ」
と指示していた。顧問は、そんな声がけはするが、大会が終わるまで立って応援しなければならない。寒そうだ。
生徒達は、普段は教壇に立っている私が一緒に走るということを、結構に喜んでいるらしい。
「ええ?先生が走るんですか。」
「ああ、そうだよ。今日は寒いねぇ。風邪引くなよ。」
「はい、大丈夫です。先生、今日は何㎞走るんですか。」
「10㎞だよ。」
「先生、ほんとっすか?。大丈夫っすか。無理しないほうがいいっすよ。」
「俺のうしろを来るなよ。気にしないでどんどん前に行け。」
「先生、ほんとに無理しないで下さい。俺、先生の後ろになってゴールしたら、後でおごりますから。」
このように、朝のうちには、挨拶がわりに声をかけあった。
零下の気温となり、雪まで降ってしまうと、いつものようなウォーミングアップもままならない。雨、雪のあたらない所で準備運動をして、体をほぐした。
雪まじりに濡れている競技場で開会式が進行しているが、スタート予定のぎりぎり時間で、スタートラインにつくことにした。
スタートのピストルも雪で湿っている。3回撃ちなおしをして、4回目でようやくなった。こういうことも珍しい。
いよいよ、走り出した。
陸上競技場のクレイトラック一周が問題だった。雪と雨でぬかるんだトラックを走り出すと、ズックに冷たい泥水が、あっという間にしみ込んできた。ぬかるみを走る足は泥に濡れ、しかもスリップした。
競技場からロードに出ると、ほっとした。グシャグシャになったズックの泥を落とすようにして走った。
しかし、雪はますます激しく降ってきた。アスファルト道路は、みるみるうちに白くなり、シューズの底面はスリップして道路を蹴ってくれない。走る一歩一歩が滑る。次に踏み出そうとする後の軸足が滑る。転倒しそうだ。体力はいつも以上に消耗した。寒いから身体もなかなか温まらない。完走することが不安になってきた。
雪は相変わらす、こんこんと降っている。顔にも眉毛にも雪がつき、前が見にくい。手で雪を払いながら前進した。顔に着いた雪で、顔面がかじかんできた。普通は、2、3㎞も走れば体は温まってくるのだが、いっこうに温まらない。ランニングパンツから露出している脚も温まるどころか、冷えて赤く充血している。顔面の雪を拭っても、顔に雪がへばりつく。顔が暖まる暇もなく冷え込んでしまった。
道路はしだいに圧雪となって、相変わらずシューズがスリップしている。腕を振って足を蹴るが、スリップするから次の一歩が、いちいちバランスを崩している。
シューズの裏側が道路を蹴らないと、腕の振りもおかしくなり、バランスを崩す。摩擦があってこそ、次の一歩が前進できる。
道路が真っ白くなっている。普通、秋の道路というのは熱を蓄えているから、少々の雪なら、すぐ溶けてしまうのだが、今日の雪は異常だ。
コースは、山手に向かって行く。緩やかな圧雪の坂道を登って行く。坂道は、平地以上にキックしないと登れない。だが、強く蹴るほどスリップする。
車の場合でも、少々圧雪になった坂道は、夏タイヤでは登れない。いったん滑り出した車は、ブレーキもハンドルも効かなくなる。車は滑るままに進んでしまう。極めて危険な状態になる。
「とんでもない日になってしまたなあ」
と思いながらも懸命に走った。
しかし、さすがに折返し点を過ぎた頃には、身体がわずかに温まってきた。寒さもさほどでなくなく感じるようになってきた。
「道路で応援しているだけでは、寒いだろうなあ。」
とも思った。
一緒に走っている生徒達の半数は、部活動で体を鍛えている現役だ。私の前をどんどん走って行く。折返してから、私を追い抜いて行く生徒も何人かいた。日頃の成績が怪しい生徒達は、
「先生、すみませんがここいらで、お先します!」
と、にこにこして手を振ったりして追い越して行った。
「先生、ガンバです。赤点解消、よろしくお願いします。」
と、また、手を振って私を追い越して行った。
しかし、私の後ろにも、まだ生徒は走っている。私が後ろを振り向くと、何とも気まずそうに、必死に走っている。ズックがスリップして苦労しているようだ。生徒も、私も雪と雨でずぶ濡れになって走っている。
野球部の生徒達は、野球のユニホームを着ているから、それが濡れた雑巾のようになっていた。
生徒も私も同じ雪の土俵にいる。こんな共感を持てることは、そうはない。
折り返してからの後半は、道路の雪を選手みんなで踏んでいるから、路面が見えていた。こうなるとキックが可能である。だいぶ楽に走れる感じになってきた。
いつの間にか、ゴールが見えてきた。
そして、ついにゴールにたどり着いた。いつもながら完走すれば嬉しい。しかし、この日の喜びは、また格別なものとなった。
走り終わったら、身体がどんどん冷えてきた。家に戻り、風呂で体を温めた。冷えた体は徐々に元に戻り、いつもとは違う、完走した満足感があった。
ちなみに、私の記録は、
52 分22 秒
だった。
この当時の私の年齢は57歳、明日の授業では、完走した生徒達を褒めてあげたいと思った。
それから3年たった平成17年(2005年)、5回目を迎えた本大会は、開催期日を体育の日の10月10日とし、コースは、最上川源流となる松川の河川敷からサイクリングロードを含む公認コースを使うようになった。
なお、その後、この大会は、何回かコース変更もされ、2020年、2021年には、コロナ禍の中にあるため、中止を余儀なくされている。
4-3 全国白川ダム湖畔マラソン大会(第20回)
~ 萌える緑と残雪の湖畔を走りませんか ~
平成15(2003年)年5月 山形県西置賜郡飯豊町
ゴールデンウィークが終了した5月の第2日曜日、山形県西置賜郡飯豊町の白川ダム湖畔において、春一番のマラソン大会が開かれた。白川ダム湖畔マラソン大会だ。
飯豊町は、新潟市と福島県相馬市を結ぶ、国道113号線のほぼ中間点に位置している。当地域の冬季間は豪雪に閉ざされる。その残雪は3月下旬まである。
飯豊山系中腹以上の山岳地帯は、6月中旬頃まで雪渓が残る。雪が深ければ深いほど、春の訪れに心躍る。
飯豊町は、遅い春の春一番の大イベントとして、町あげて本大会を開催する。小中学校は、原則として児童生徒全員が参加し、その振替休日をとっている。
多くランナーは、春を十分に満喫できる本大会の魅力を知って、毎年、県内外から集まってくる。
<種目>
2㎞ 5㎞ 10㎞
参加者計 約2,000人
新潟市近辺、宮城県、そして山形県南部のランニング愛好家が多い。
白川ダムは、昭和43年(1938年)の羽越豪雨による大被害を機に、国の事業として建設された。高さが66m、堤長400m、総貯水量5,000立方m、日本発のロックフィルダムとして、昭和56年(1981年)に国土交通省が、完成した。
当時の人口が8,000人(2021年、6,433人)に満たない飯豊町にとっては、たいへん大きな施設だ。周辺の水ネットークも完成し、水環境が大きく変化した。
町は、ダムを目玉とした観光事業に大きな力を入れ始め、その一環として本大会が開催されるようになった。本年で20回大会、ダム完成の2年後から継続して実施されいる。
私達は、平成6年(1994年)が初出場だった。それ以来、本大会には連続して出場している。記録を見ると、年齢とともにタイムが落ちてくることもよく解る。40代の頃は10㎞を41、42分台で走っていた。その頃は、30分代で走れるランナーは、ほんとうにすごいと思ったものだ。
50代後半になった今の私は、40代の時の速さで、はとてもゴールできない。その頃は、よく走れたものだと、今になって思う。
当大会を開催する飯豊町には、私が勤務した高校に通った卒業生も、役員として協力していたり、親子で参加したりしている。
スタート前のウォーミングアップをしていると、
「いやあ、お久しぶりです。今日は、何㎞走りますか。」
「しやぁ、高橋君、ご無沙汰でしたね。うん、10㎞だよ。」
「うわー、ほんとですか。すごいですね、僕は、親子の部で参加です。子供と楽しみます。走るってほどではないですから、すみません。」
「いやいや、さっぱりすまないことないよ。お父さん業、大したものだねえ。」
こんな会話ができるのも、仕事がら、何となく嬉しくなる。
また、現在の勤務校の陸上部の選手達も、参加している。彼らは京都の全国高校駅伝を目指している現役選手だから、それこそ、10㎞を35分前後で走る。スタートしてゴールまで、ほとんだが先頭集団を走り、上位でゴールインする。
「おはようございます。先生は、何㎞走りますか。」
「うん、10㎞でした。」
「うわー、ほんとっすか。すごいっすね。」
「いやいや、そんなことないよ。みんなは、トップ集団でしっり走れよ。」
「はい。」
と、まことにスポーツマンらしく、きびきびしている。
大会は湖岸公園がスタート・ゴールだ。
いよいよ、スタートだ。町長さんがスターターだ。
ピストルがなった。
ランナー達は湖畔公園を一斉に飛び出した。湖畔を一周して、今度はダム湖を周回する広いロードを走る。走っているすべての時間、ダム湖の風景だ。空気もきれいだし、何とすがすがしいことだろうか。
もともとは山の中だから、コースはゆるやかにアップダウンする。しかし、だから、きついというほどのものでもない。雪を溶かした水を、いっぱいに貯水している湖の水面に、春の息吹が満面にただよっている。深い雪の中にあった木々のつぼみが膨らみ出している。若葉萌ゆる緑のパノラマ風景だ。
無事ゴールインした。妻も春風をいっぱい吸って10㎞を気持よく完走した。
ちなみに、記録は、
私 48分30秒(10㎞) 妻 26分58秒(5㎞)
でした。
この湖岸公園周囲は、その水位が公園周囲のほどよい水位になるように調整されている。
春は、ダムに貯水された雪解け水が、徐々にぬくろみ始め、大きなへら鮒なども釣れる。湖畔には釣りを楽しむ人も多い。湖畔公園は、キャンプ場、テニスコート、サッカーグラウンド等が、広々と設置された総合公園だ。公園にはテントも張れるし、バンガローもある。
白川荘、豊里荘などの温泉宿もある。
会場には、町が準備したテントがたくさん張られている。大会本部、事務局、春の農産物や草花を売る観光物産展、そして今日一日を楽しもうというファミリーのテント等々、多数張られていた。
地域で養殖された鱒や鮎などの塩焼も売り出され、会場には、いい臭いが立ちこめている。
飯豊町には牧場も広々とあり、その牛肉が名産品として売り出されている。走った後での湖畔公園での焼肉パーティもできる。事前に申し込んでおけば、特上の飯豊牛でそれを楽しめる。
小さい子供連れのファミリーランナーは、走った後の野外昼食を楽しみにして参加しているようだ。思い思いのパーティーセットを車に積んで来る。我が家も、子供達が小さい頃には、ファミリーの部を子供と一緒に走り、鮎等の塩焼きを家族みんなでほうばったものだった。
また、大会は、春の山菜の収穫が始まる頃の開催だ。山うど、こごみ、ぜんまい、あざみ、あけびの新芽など、たくさんの山の幸も収穫することができる。
走った帰り足は、湖畔公園のすぐそばにある渓流の近くを散策すると、その日の夕食分程度の山菜が収穫できる。
自分で採った山菜は、また格別にうまい。それをつまみにして飲むお酒は、また格別だ。充実した一日となった。
なお、本大会は、2021年で 第39回となっているが、新型コロナウイルス感染症の全国、山形県内の感染状況を踏まえ、開催を中止した。
4-4 川西町元旦マラソン大会(第28回)
~ 新春を駆け抜けよう ~
2004年 1月1日 山形県東置賜郡川西町
2004年の1月1日は、川西町元旦マラソン大会を走った。この年の走り初めだ。
川西町は、山形県米沢市の隣町だ。米沢からは、約13㎞m程北西にある。
本大会は、少子高齢化する町を、元日から盛り上げようとして、始められた。28回大会を走った。
<種目>
3㎞ 5㎞ ジョギングの部(3㎞年齢オープン)
軽く走って、程良い汗を流し、いいお正月を迎えようということだ。
申込書を見せて妻を誘ってみると、一緒に走ろうということになった。
「雪が降れば、棄権するよ。」
とも言う。正月の準備もあるのだから、それでよい。
私としても、元日からのマラソン大会申込みは、これが始めてだ。元旦マラソンを探してみたが、関東以北では見当たらない。
大会当日の元日は、関東地方のような晴天となった。気温も5℃、暖かい。雪が降れば、除雪車も出るところだが、その必要もない。ここ2、3年は、年の暮れの12月中旬以降から1月初旬まで雪がなかった。今年もどうやら、雪は少ないのかもしれない。
スタートゴールとなる川西町体育館周辺は、田園地帯だ。いつもは、除雪車が押しつけて道路側に積まれる。その雪もない。最近降った雪が田圃にうっすらとある程度だ。
町長さんは、大会会長挨拶で次のように述べられた。
「雪のない正月、そして道路にも、田圃にも雪のない本大会は、28回実施の中で、初めてです。ランナーの皆さんにとりましては、天候にも恵まれて、たいへん良かったでした。どうやら地球は温まっているらしいです。雪がありながら開催してきた本大会ですから、この晴天が喜ばしいことなのかどうか、複雑な思いになります・・・。」
路面に雪があれば、スリップして走りにくいし、転倒しやすくなる。今回は雪のない道路で、絶好調の元旦マラソン大会だ。
スターターは、町長さんだ。
スタートのピストルが打たれた。
一面雪のない田圃の中、広い農道を走る。周囲を見渡せば、月山、朝日岳、そして蔵王や吾妻連峰が美しく輝いて見える。晴れ晴れとした新年ののどかな景色である。5㎞が最長だ。
当初はゆっくり走ろうと思っていた。しかし、東北ならではの美しい景色を楽しみながら、少しピッチは上がっていたようだ。
雪がなくても、冬だ。走り始めは寒いが、しだいに身体も温まってくる。
当地域にある、山形県立米沢工業高等学校の駅伝部の生徒達は、日頃トレーニングしているだけあって、さすがに早い。
その前を走っているもっと早いランナーもいた。県の縦断駅伝にエントリーされている選手達だ。そういう早いランナー達も、この大会を走り初めにしている。彼らは、5㎞を15分から16分少々でゴールする。
地元ケーブルテレビ局が唯一取材に来ている。わずか510人の参加者だが、隈なく取材する。その様子を特集番組で地元のお茶の間に映し出していた。
「町長さんも毎年、元日早々からたいへんですね。」
「いえいえ、この大会は、今年で28回にもなります。我町、川西町の恒例の行事です。毎年のことですが、元旦マラソンで、新しい年が始まります。私も本大会で、新年の御挨拶と、スタートのピストルを打ちまして、新しい年が始まります。私は、長年、これが生活のリズムになりました。こういう新年のスタートは、なかなかいいものです。」
「あなたは、川西町ですか。」
「いいえ、私は山形市からです。元日の大会って意外と少ないんですよねえ。ですから、毎年、川西町で、これを走ってお正月です。ずっと続けて欲しいですね。」
と、山形市からやってきた、ジョギング愛好家のお母さんランナー。
「そうですね、私は28回、全部出場していますから、30代からずうっと連続です。こう雪がないのは、初めてですね。かつては、雪がたくさんありましたから、何回も長靴をはいて走りましたよ。」
と、28回全出場の60歳代の男性。
「今日は息子と孫の応援に来ました。」
と、60歳代の女性の方。
「家族6人なんですが、今年は6人全員で出場です。」
と、6人家族のお父さん。
「中学校の野球部に子供が入ってまして、部員全員走るんですよ。」
「それじゃ、お父さんも息子さんと走ったらどうでしょう。」
「いやいや、昨日までそう思っていました。ですが、昨晩の大晦日、ちょっと飲み過ぎなんですよ。今日は応援だけにします。すみません。」
と、中学校野球部員が全員出場の保護者会のお父さん。
「昨日の大晦日、この大会があればゆっくり飲んでもいられないでしょう。」
「いいえ、飲むものはしっかり飲んで、栄養補給して走ることが大事ですね。」
と、40代の家族連れのお父さん。
ちなみに、記録は、
私 22分13秒(5㎞) 妻 15分16秒(3㎞)
でした。
妻も初めての元旦マラソンを快調に走り、二人で爽やかな汗を流して新年を迎えた。その後、家族みんなでの新年会、新年のお酒は、一段と美味しかった。
ランナーも、その家族の皆さんも、元旦マラソンを大いに楽しんでいた。
なお、2022年1月1日、実施予定の第45回大会は、コロナ禍の中にあるため、中止と発表された。
次回は、「僕のランラン人生5 山形県2」の大会についてです。