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僕のランラン人生3 東北地方

図1

         <一関市、湯田町、田沢湖町、郡山市、二本松市>

3-1 一関国際ハーフマラソン大会(第21回)

         声援とゴールはあなたを待っている
                 岩手県一関市 平成14年(2002年)9月

 一関国際ハーフマラソン大会は9月、第4週日曜日、岩手県南の中核都市、一関市で開催された。
 一関市は、東北の都、平泉中尊寺で名高い平泉町に接し、盛岡、仙台の中間点にある。

図1

 車は東北縦貫道、一関ICで降り、10分程で一関市内に入る。
 2002年で、21回を数える伝統の大会だ。国際マラソンというだけあって、アメリカ合衆国、韓国、台湾、香港等、近隣国外からの選手が多く招待されていた。
 私達が参加した2002年の大会では、山梨学院大学に在学していたデビットカウリキ選手等、力ある20名程の国内招待選手も参加し、花をそえた。
 要項に掲載されている大会会長、市長等の主催者側の挨拶文には、日本語に加えて、英文も添えられていた。
 また、好タイムでゴールした選手は、ホノルルマラソン大会(アメリカ)、国際親善老壮マラソン大会(韓国)、コースト・オブ・チャイナーマラソン大会(香港)、台北国際マラソン大会(台湾)等に招待される。
 一関市は、走ることを通して国際交流に力を入れている。ユニークな国際都市づくりをしていた。

 <種目>
    5㎞の部   10㎞の部  ハーフマラソンの部

 本部とその周辺にはテントが張られ、いろいろと案内しているが、そのすぐそばにある一関市役所、体育館は全面開放されており、トイレ、ロッカーなどに支障はない。
 はり灸マッサージサービスも開設されていた。市の鍼灸マッサージ師会の皆さんの協力によるものだ。私も、このサービスを喜んで受けた。会場は、大いに繁盛していた。
 待つ人も多いが、治療の台は10台以上あり、すぐ応じてくれた。

図2

 一関市役所前がスタートゴールだ。
  10時スタート、IBC(岩手放送)テレビ局の中継車も取材する。
  白バイが先導する。招待選手達と、その他のスピードランナーは、シロバイについてトップ集団を作っていた。

 私達がエントリーした10㎞は、市役所前から市内幹線道路をほぼ直線的に走り、折り返すコースだ。アップダウンは、最大で6.5m、走やすい。

図3

 IBCテレビは、その日の午後、30分番組で特集し、IBCラジオは実況中継した。
 ちょうどお昼頃、何とか、無事ゴールインした。

図4

 ちなみに、記録は、
     私   50分 05秒 (10㎞)
               妻 59分 00秒 (10㎞)
 だった。

図5

 参加賞は、一関特産米、「ささにしき」や「ひとめぼれ」のおむすびだ。選手全員に配布された。また、一関特産のまがりネギの入った、「やわらか美人汁」も何杯もおかわりできた。嬉しい昼食だった。

 亀の湯、古戦場の温泉のお風呂券も参加賞としてサービスされた。これを使って、温泉で汗を流し、すっきりして帰路についた。

 途中、国定公園栗駒山を遠くに眺め、美しい渓流風景を楽しんだ。
 また、猊鼻渓(けいびけい)の船旅で見た風景は、墨絵の題材にもなりそうな、味わいのあるものだった。

図7

 なお、現在(2021年)では、第40回大会となっているが、コロナ禍の中にあるため、中止となった。


3-2 錦秋湖マラソン(第21回)

      ~桜に負けるな、百花繚乱、湖上のお花見で選手歓迎~
                                                  2001年5月  岩手県湯田町

 錦秋湖マラソンは、錦秋湖、湖水祭りの一環として、5月下旬の日曜日、岩手県湯田町最大の行事として開催されている。
 錦秋湖は、岩手県と秋田県のちょうど中間地点、湯田町に作られた人造湖だ。
 東北縦貫高速道路、岩手県の北上ジャンクションから秋田自動車道に入り、しばらく走ると大きな湖が見えて来る。それが湯田ダムによってできた湖、錦秋湖だ。
   和賀川本流をせき止めた湯田ダムは、87.5mの重力式アーチダムで、昭和39年(1967年)、潅漑、発電等の多目的ダムとして完成した。

図8

 湯田温泉は、錦秋湖を新たな観光の目玉として、積極的な観光案内をしている。湯本温泉、湯川温泉、薬師温泉、巣郷温泉、槻沢温泉など、9つの温泉が点在する。

 大会の前日と、当日は、仙台とほっとゆだ駅の間に、「錦秋湖マラソン号」という臨時列車を運行それた。仙台駅から臨時列車で湯田町まで直行できる。湯田町上げての大会となっている。

図9

 「ゆだ錦秋湖駅」から「ほっとゆだ駅」までの区間を、電車がのどかに走る。錦秋湖を横断する鉄橋だ。
 湖上を走る2両編成の電車の音が、湖面に軽やかに響く。

 湯田町には伝統の獅子踊りがあり、大会前日の前夜祭では、笛の音にあわせて、獅子が盛んに舞い踊った。

図10

 日が暮れた頃には、
「桜に負けるな、百花繚乱、湖上のお花見」というテーマで、水上大花火大会が開催された。
 マラソン大会より、この花火大会お目当てのランナーも多いようだ。花火は、約1時間の間、次々と打ち上げられた。湯田町あげての湖水祭だけあって、水中花火がたくさん準備されていた。

 翌日は、約2,000人が走ることになっている。

<種目>
    30㎞  ハーフ   10㎞

 当日、スタートの時間となった。
 小じんまりした温泉町の道路、ぎっしりと選手が並んでいる。湯田町役場前がスタートだ。
 スタートの号砲が鳴った。

図11

    春のいぶきいっぱいの錦秋湖湖畔、新緑の木々の酸素がかもし出す、すがすがしい空気を胸いっぱい吸いながら、ゆっくり、快調に走った。

 ちなみに、記録は、
    私    49分03秒(10㎞) 
            妻 57分16秒(10㎞)
 だった。

 爽やかでのどかなマラソン大会だった。

 ゴールすると、参加選手には炊き込みごはんのおにぎりと、舞茸汁が提供された。ゴールは、ちょうどお昼の時間なので、その美味しさはひときわだった。

 また、温泉組合のバスが近くの温泉まで送迎してくれた。多くの選手は、そのバスを利用して温泉に行き、汗を流すことができた。
 湯船では、マラソンのコースのこと、今日の体調のこと、次の大会のことなど、初めて会う人達なのに盛り上がっていた。
 
 秋深い紅葉の頃、錦秋湖をもう一度、訪ねてみたい。

 この年の暮れになって、ゆだ温泉への無料招待券が送られてきた。「是非お二人で」とあった。すごいサービスだ。
 この招待券は、使うことはなかったが、翌年、湯田温泉に一泊して、再度、この大会を走ることになった。
 文字通り、ホットな湯田町だった。

 現在(2021年)では、第40回大会となっているが、コロナ禍にあるため中止されている。


3-3 田沢湖マラソン大会(第18回)

        初秋の田沢湖畔を走ろう

              秋田県田沢湖町  2003年9月21日(日)

 妻も最近、10㎞も走り始めた。田沢湖マラソン大会は、久しぶりに妻と共に、10㎞に出場することにした。妻は、2、3回、10㎞を完走したものだから、少々自信がついたらしい。
 田沢湖町の主な産業は、田沢湖を中心とする観光と、その周囲の温泉等だ。
 田沢湖は、周囲の長さが約20㎞のほぼ円形な湖で、水深423.4mは日本一の深さを誇る。湖面は四季折々に表情を変える。秋は木々の紅葉が映え、冬の湖は遙か遠くまで白色の雪面となる。

図12

 夕刻、到着した宿泊のホテルは、秋田駒ケ岳の、豊かな自然に恵まれた田沢湖高原温泉郷の一角だ。ホテルのロビーからは、夕陽をあびた田沢湖を一望することができ、その景色に見とれてしまった。途中には、水沢温泉、高原スキー場の上方に、東日本随一の秘湯といわれている乳頭温泉郷もある。

 大会は、前日の午後から受付けを開始していた。私達は、下見も兼ねて前日に受付を済ますことにした。プログラムを見ると、何と4,000人以上がエントリーしていた。
 ゲストランナーは、増田明美さんと山田敬三氏だ。
 増田明美さんは、女子マラソンの日本最高記録を12回、世界記録を2回も更新し、1984年(昭和59年)のロスアンゼルスオリンピックでは、初の女子マラソンを走った。
 山田敬三氏は、1952年(昭和27年)ヘルシンキオリンピックを走り、ボストンマラソン大会では優勝した。山田さんは、この年で75歳になるが、本大会は、初回から、本年18回まですべてフルマラソンに出場していると紹介された。そして、今年もフルマラソンコースを走る。ただ、ただ驚くばかりだ。

図20

 プログラムをよく見ると、高齢者が結構多い。
75歳以上のランナーをプログラムから拾ってみた。

図18

図17

図19

 当日は、14℃、少々肌寒さもあるが絶好のマラソン日和である。午前10時、約4,000人がゴールを目指して一斉にスタートした。
 ハーフの部は、田沢湖約一周するコース、フルマラソンは湖を一周してから田沢湖町内を回って、また湖にもどってゴールする。

図21

 私達が走る10㎞は、いったん、たつこ像のある所まで移動し、そこから湖畔を周走して郷土資料館近くがゴールとなる。
 コースはワンウェイだから、10㎞のランナーは、各旅館が提供するバス、あるいは遊覧船に乗って、たつこ像まで移動する。荷物は、スタート地点で回収し、ゴール地点まで回送される。ワンウェイコースにしているのは、美しい湖畔の景色を存分に味わって走ってもらおうという配慮だと思う。
 ハーフの部には、視覚障害者も何人か走っている。その人達を伴走するランナー達は、余裕の笑顔で走っていた。伴走者達は、おそらく視覚障害者の日頃のトレーニングも応援しているのだろう。障害者の方にも、伴走のボランティアランナーにも、敬意の念でいっぱいになってしまう。
 10㎞コースを走る増田明美さんが笑顔でスタート地点にやってきた。それだけで、スタート付近がにぎやかだ。

「皆さん、おはようございます。今日は、こんなきれいな田沢湖畔を皆さんと走れるなんて、とても嬉しいです。いい汗をかいて、いい思い出をつくりましょう。」

 そして、また、こう呼びかけた。
「稲川町からおこしの阿部弘一さんはいらっしゃいませんか。ええと、それからですね、新潟市からの鍵冨春雄さんいらっしゃいますか。阿部さんはですね、82歳、鍵冨春雄さんは81歳なんです。79歳の菱倉さん、照井さんも皆さんと10㎞を走ります。80歳過ぎて10㎞を走るなんて、オリンピックを走るより素晴らしいことですよねえ。ゆっくり楽しんで完走して下さ~い。」
 増田さんは、満面の笑顔で精一杯のサービスしておられた。

図22

 10㎞コースは、妻と共にスタートラインについた。家内と肩を並べて10㎞を走るというだけで、何となく楽しくなる。私はいつもの10㎞だが、妻は久しぶりの長距離である。少々緊張してスタートした。途中まで大勢のランナーの流れに合わせてゆっくり走る。
 途中で、妻に言った。
「じゃあ、この辺で、先に行く。ゆっくりでいいから完走しろよ。」
 私は少しだけペースアップした。秋の田沢湖を左手に見ながら、たんたんと走る。そして、いつも程度のスピードで、快調にゴールインした。 

 増田さんは周囲のランナーに笑顔で声をかけて、文字通り、ゆっくりしたペースでジョギングをされていた。私がゴールするちょった前に、
「ただいま、ゲストランナー、増田明美さんのゴルインです。」
というアナウンスが聞こえた。増田さんは多くのランナーに笑顔で声をかけながら、余裕の表情で走っていた。
 私は精一杯なのだが、そんな増田さんと大差なく走っているというのも、何となくいい気分だった。

 そして、妻も無事ゴールインした。
「10㎞、走れるわ。そんなに疲れるって感じでもないわ。また、10㎞でやってみようかな。」
 気持よく走れたことに満足していた。ほんとうに、次回も10㎞を走るのかもしれない。

  ちなみに、
      私  49分18秒   
                妻   58分45秒
  だった。

 ゴール地点では、冷たい水、ジュースが準備されている。さらに、みそ汁、「秋田こまち」のごはんのサービスも行き届いている。もう一度参加したくなるような素晴らしい大会だった。
 私達は、小さな町の大きな大会を走った充実感を味わい、帰路についた。

 大会が終わって5日後、新聞が送られてきた。サンケイスポーツと提携している「さきがけスポーツ」という秋田県地元スポーツ新聞だ。
 そこに、本大会を18年連続でフルコースを走ってきた山田敬三氏のコメントが寄られていた。
「田沢湖マラソンとは18年間の長いおつきあいとなりました。70歳を過ぎましたが、体力、気力、努力という日本マラソンの創始者、金栗四三先生の教えを念頭において走っています。体力の衰えも年々厳しくなります。昨年もフルマラソンを走りましたが、ようやくの完走でした。今年は、75歳最後のレースでした。また、走りたいと思っています。」

 なお、山田敬三選手は、2020年4月2日、92歳でご逝去された。心よりご冥福を祈ります。

 なお、「第35回田沢湖マラソン」は、2021年9月19日に開催予定だったが、収束の見えない新型コロナウイルスに対する安全面を優先し、開催は延期となった。


3-4 郡山シティーマラソン大会(第10回)

       水と緑がきらめく、未来都市、郡山 
                平成14年(2002年)4月 福島県郡山市 

 福島県郡山市は、福島県中通り中部に位置する中核市であり、福島県を代表する商工業都市だ。人口は32万人を超える。

図23

 郡山シティーマラソン大会は、開成山陸上競技場を中心会場にして、毎年、昭和の日、4月29日に開催されている。この年は9回目の大会だった。
 山形県米沢市の我家から郡山市までは、車で90分程、ドライブを楽しむにはちょうどよい距離だ。
 郡山市は福島県の中央にあるため、関東地方からも多くのランナーが参加している。

<種目>
    男子10マイル    10㎞   5㎞   3㎞    2㎞(小学生)
   父と子(小学生)  母と子(小学生)
   車椅子生活用車(2㎞) 車椅子競技用車(5㎞)

 年齢、男女別等に分けられ、計24部門のスタート、ゴールがセットされていた。
 視覚障害のあるランナーも、伴奏ボランティアの方々と共に参加していた。視覚障害者の方々は、日頃の練習も積まれており、走力があり、スピーディーに走る人が多い。
 開成山陸上競技場がスタートゴールとなっている。そこは、全天候型の公認競技場。トラックは、赤茶系の合成材で作られており、ほどよいクッションが伝わってくる。
 ゲストランナーは、1988年のソウルオリンピック女子マラソン選手、宮原美佐子選手だ。日本で初めて、2時間30分の壁を破った女性マラソンランナーだ。今は現役を引退され、2児のママさんでもある。

図24

 ランニングアドバイザーとして、走ることの楽しさ、素晴らしさを、多くの人に伝えておられる。トレーニングも欠かさず、年に何回かはフルマラソンも走るという。

 「皆さん、今日一日、楽しく走りましょう。」

という宮原選手の挨拶が終わって、郡山女子大学付属高等学校マーチングバンド部の見事な演奏が披露された。
 開会セレモニーが終わって、いよいよスタートだ。

図25

 すべてのコースが郡山駅前から東西に走るメインストリートの直線コースを折り返す。 私達が走る10㎞コースは、開成山陸上競技場をスタートし、東北縦貫道路跨線橋下を通り越したところで折り返し、競技場にもどる。

 緑の日の4月29日、快晴、コースの並木も新緑に映え、春の香りがいっぱいで、爽やかだ。
 ゆるやかなアップダウンがあるものの、走りやすいコースだ。快調に走った。

図26

  本年もあまり飛ばしては走ってはいないが、快適に走り、無事完走した。妻も5㎞コースを完走した。

  ちなみに、記録は、
    私 48分30秒(10㎞)
            妻 15分 38秒(5㎞ 8位)
  だった。

  程よいリフレッシュをして、翌日、また仕事に就いた。

 なお、令和3年(2021年)4月29日(昭和の日)に開催予定の、第28回郡山シティーマラソン大会は、国内で新型コロナウイルスの感染拡大が続いており、その終息が、まだ見通せないということで、中止となった。


3-5 霞ケ城クロスカントリー大会(第23回)

       智恵子の故郷、二本松を走ろう         
          平成16年(2006年) 3月28日 福島県二本松市

 第23回霞ケ城クロスカントリー大会は、福島県二本松市で開催された。
 二本松市は、福島市と郡山市のほぼ中間に位置し、安達太良山麓の裾野に広がる町だ。

図28

 本大会は、3月第4日曜日に開催される。年度末の開催だから、仕事の調整をしておかないと、参加は難しい。

 <種目>
      2.7㎞(女子)    5.3㎞(男女)    8.2㎞(男女)

 8.2㎞が、本大会の一番長いコースだ。ただし、クロスカントリー大会にふさわしく、8㎞で150m以上のアップダウンがある。しかし、折り返しのコースだから、その半分の4㎞で150mの起伏を走ることになる。
 スタートは霞ケ城本丸前だ。8.2㎞のスタートが近づいてきた。本丸スタート地点から天守閣を見上げると、とてつもない急勾配に見える。どうやら、そこを一気に駆け上がるようだ。
 ウォーミングアップをして、スタート地点に行った。ちょうど隣り合わせになって、ウォーミングアップをしていた年輩風の男性に挨拶した。

「こんにちは、どちらからですか。」
「私は仙台からです。」
 若干ご年輩に見えたので、
「何歳になられますか」
「私ね、83歳です。」
「ええ・・・、ほんとですか。で、今日は、こちらの8.2㎞コースを走られるのですか。」
「はい、去年は5.3㎞でしたから、今年はこちらのコースにしてみました。」
「すごいなあ、長い間走っているのでしょうねえ。」
「そうだねえ、私はね、50歳になってから走り出したのですよ。」
「50歳からとしても、もう30年以上ですよね。」
「ええ、そうですね、ですけど、速く走れませんよ。ゆっくりゆっくりですね、走るのは楽しいですからねえ。生きている限り走ろうかと思ってますよ。」

 いよいよ、8.2㎞のスタートだ。
 霞ケ城大手門前をスタートして、左方向に急カーブを回り、いきなり急な登り坂だ。スタートした直後だから登る力はあるが、すぐさまスピードがダウンしてしまった。気持だけで走っていた。手を振っても歩くようなスピードだ。城の天守閣までそれが続く。この急こう配コース、知らぬが仏だった。

図29

 階段状の狭い登り道が続いた。
 次の難関、急勾配の「かさ松」前の散策道を歩くようにかけ上がった。そして、さらに急こう配となる二本松城石垣裏から一般道の遊歩道に入った。

図30

 その道もアップダウンしながら松坂御門橋、久保丁橋、テレビ塔前で、5.3㎞コースは折り返しとなる。折り返し点からは、二本松市、安達太良山の全景が美しく広がって見える。
 8.2㎞は、さらに切通し橋、祭橋、南橋を渡り、文化センターで、もう一度折り返す。

図31

 少し行くと、スタートの時に知り合った83歳の彼が、急な坂道をしっかり腕を振って登ってきた。私は下り道になっているが、彼は、まだ登りの坂道だ。しかも、私にすぐ気がつき、にこにこ顔で手を振ってくれた。
「いやあ、ごくろうさん。さすがに速いねえ。私はゆっくりゴールインしますよ。頑張って。」
と、いかにも楽しそうに私に声をかけるてくれた。急な坂道なのに、ゆっくりだが、足を引きずっている様子もない。83歳の足とはとても思えなかった。

 ふと思った。
「自分は、83歳まで生きていられるのだろうか・・・。生きていても、あんなして走れるのだろうか・・・。」
と。

 最後の約1㎞は登るだけ登った後の急な下り坂だ。腕をしっかり振って一気にゴールした。
 この厳しいアップダウンのコースを完走したことには、大満足だった。

  ちなみに 
      私 43分48秒(8.3㎞)
                 妻 31分58秒(5.3㎞)
  だった。

 完走すると、漬物と甘酒飲み放題のサービスが準備されていた。それらをいただきに行くと、
「ビールは、ないかねえ」
と中年のランナーが尋ねていた。
「ここは甘酒だけですよ。ここいらは、米はたくさん作っているけんどな、麦は作っていないからねえ。ビールは買って飲みなさい。」
「そうだよねえ、走ってビールなんてなあ。うわぁっはは・・・」
彼は、ほんの冗談のつもりだったようだ。

「大根漬け、沢庵漬けも美味しいですよ。どうぞ、どうぞ。」
地元で採れた大根を漬けたものだ。葉つき大根漬けが格別だ。
約500名程の参加だが、その分の漬け物が持ち込まれていた。
 ボランティアのおばさん達も、選手達と楽しそうに話をしていた。
 汗をかいたあとの甘酒サービスというのは珍しい。2杯お代わりして会場を後にした。

 二本松市には、標高は1700mの安達太良山の麓にある。高村光太郎の詩集、「智恵子抄」で、安達太良山は、多くの人々に知られるようになった。
 東京にいると病気がちになる智恵子は、故郷の実家に帰っては、健康の回復をはかろうとしたといわれている。
 醸造業をしていた智恵子の生家は、智恵子記念館として保存されている。そこを見学し、広大な安達太良山を見ながら二本松市を後にした。

図32

 なお、2021年、39回目を迎えた本大会は、コロナ禍の中にあるため、中止となっている。

 

次回は、「僕のランラン人生4 山形県1」の大会についてです。





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