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第5節 街道史話

5-1 上杉鷹山と板谷街道

 第9代米沢藩主、上杉鷹山が米沢に初入部したのは、明和6年(1769年)の11月、19歳の時でした。
 鷹山一行は、約200名の家臣団と共に、最後の宿、板谷宿に一泊し、翌朝、雪の降る板谷街道を米沢に向かいました。途中、米沢領内が見えてきました。

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 自国となる米沢に足を踏み入れると、干ばつ、水害などで荒れた領内の姿が、鷹山の眼に入ってきました。
 鷹山は、一人つぶやきました。
「いよいよ、命をかける大仕事が始まる。決心はしてきたつもりだが、果たして私に出来るものか?」
 籠に揺られながら、まだ、二十歳にもなっていない鷹山には、不安がつのりました。
 ふと、籠の中の火鉢の灰をかき混ぜると、小さな炭火が残っていました。そこで、炭箱から炭を取り出し、残り火に息を吹きかけながら、炭に火を移しました。
 鷹山は、行列を止め、家臣達に言いました。
「今、灰の中に、小さな火が残っていた。これを他の炭に移したら、また新たな火種が出来た。次々と火を移せば、いつかは大きな火となる。この小さな火種はお前達なのだと、私はつくづく思った。米沢に行けば、火のつかない炭もあるだろう。だが、一つや二つは、火のつく炭もあるはずだ。お前達が新たな火種となり、米沢藩士の心に火を移し、藩民皆が、安心して住める米沢にしたいものだ。」
「は、は~」
家臣達も、雪の降る道路にひざまつき、鷹山に一礼し、決意を新たにするのでした。 
 鷹山一行は、寒さの中、木綿の着物を折り目正しく着て、粛々と米沢城下に入ったのでした。
 いよいよ、大借金を抱えた米沢藩の改革政治が始まります。

5-2 組石や石碑が語る板谷街道

 板谷街道沿いには、石に文字を刻んだ各種の石碑があります。
上杉家御年譜」という資料には、次のように記されています。
「参勤交代の行列が、江戸を出発すると、7日目には板谷宿に到着します。すると、板谷峠には、猿牽(さるひき)が出て行列の到着を祝います。翌日、板谷を出発して米沢城下に向かいますが、その際、米沢藩の家臣団は、それぞれの場所で行列の出迎えをしました。」
 大沢の長根橋のたもとに、「御守組」、同じく、大沢駅の近くには、「猪苗代組」の石碑があります。それぞれのその位置が、行列を迎える場所でした。御守組は米沢城御殿の警護を担当した人達です。猪苗代組は、もともとは信濃衆で構成され、会津移封後に猪苗代で知行地を与えられました。その後、米沢城下に住んだ人達です。

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 関根にある笠松温泉前には、「五十騎」と刻んだ組石があります。そこが五十騎組の家臣団が出迎える場所です。五十騎組は、米沢藩初代藩主、上杉景勝の直参の家臣団です。藩では、大目付、町奉行、勘定頭など、藩の重責を担いました。
 また、「組外(くみほか)」という組石には、「これより北が組外の位置」とも刻まれています。組外は、関ヶ原の戦い等で集められた浪人等で構成された侍達です。前田慶次も組外のリーダーだったといわれています。

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 西軍敗退により上杉氏が米沢に移封されると、これに従って前田も上杉軍に就き、長谷堂城の戦いに出陣して功を立てます。最後は、米沢近郊の堂森に隠棲したといわれています。
 行列が城下に入ると、町奉行は福田、代官は山上等と、それぞれの役職毎に場所を定めて出迎えたのです。
 なお、文化8年(1811年)の米沢城下絵図には、「猿引町」という町名が記されています。猿牽の人達が住んだことによる町名ではないかとも思われます。そこは、米沢城址北側地域にある徳町の位置になります。

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 また、板谷と大沢の宿場町には、雪舟(そり)大明神と刻まれた石碑があります。冬の板谷街道は、雪のため道路幅が狭くなり、雪崩(なだれ)の起きやすい危険個所もたくさんありました。輸送の安全を願ってこのような明神様を祀り、祈りを捧げたのです。
 米や炭、木材等の荷物を、雪舟に積んで運ぶという光景は、戦後間もない頃まで、雪国の置賜地域では、ごく普通に見られました。

5-3 細井平洲、感動の米沢訪問

 細井平洲は、江戸に嚶鳴館(おうめいかん)という私塾を開きました。この塾では、多くの武士、町人、老若男女、が身分の区別なく学ぶことができたといわれています。
 平洲は、全ての層から慕われた教育者でした。この塾に学んでいた米沢藩の藁科松柏、竹俣当綱等の推挙によって、平洲は、江戸における「鷹山の師範」を勤めることになります。鷹山は、平洲を最も尊敬する師と仰ぎ、生涯の心の支えとしたのです。

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 鷹山は17歳で、上杉重定より家督を相続し藩主となります。平洲は、藩主になる鷹山に、
「勇なるかな勇なるかな、勇にあらずして何をもって行なわんや」
という言葉を贈り激励しています。
 平洲は鷹山の要請を受け、板谷街道を通り、米沢を3回訪れました。
   米沢藩の馬場周囲に山桜が植えてあったことから、そこは「桜馬場」ともいわれました。その馬場内には、藩校興譲館の前身ともいうべき、松桜館が置かれました。
 平洲の第1回目の訪問について、米沢興譲館史には次のように記されてています。
「明和8年(1771年)、第9代藩主上杉鷹山が「学問所」を再興し、招聘した細井平洲を馬場御殿の松桜館に迎える、平洲、学生に講授もし、以後10か月間滞在する。」
 米沢に滞在する期間には、平洲は、藩校興譲館の生徒達や地域の人達に講義を行うのが常だったいわれています。
 3回目の訪問は、寛政8年(1796年)、両者の再会への強い願いによって実現したものです。鷹山は、早朝、米沢城を出発し、板谷街道を米沢に向かう平洲一行を、関根の羽黒神社で出向かえました。鷹山は高齢となった平洲を、涙を流しながら迎え、普門院に招き、旅の疲れをねぎらったと伝えられています。
 時に平洲69歳、鷹山46歳、10数年ぶりの対面でした。その頃の平均寿命は、40歳に届くか届かないかの時代ですから、この出会いは、鷹山の格別の思いがあってこそ実現されたものです。
 明治時代になると、この場面が、日本の道徳の教科書に取り上げられ、図3-3のような挿絵とともに全国の子ども達に紹介されました。

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 米沢市と姉妹都市となっている東海市は、市制45周年を記念して、この感動の場面を銅像として再現し、「敬師の像」としました。2つ製作し、一つは東海市の玄関口である太田川駅前に、一つは、平成26年、米沢市に寄贈され、関根の普門院前に設置されました。

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5-4 大野九郎兵衛の供養碑

(1)吉良義央(よしひさ)と富子
 図4-1は、上杉家の系統図です。

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 吉良義央の妻、三姫(後の富子)は、米沢藩第3代藩主、上杉綱勝の妹です。義央は、万治元年(1658年)4月、その三姫と結婚します。上杉家と吉良家は親戚になったことになります。
 綱勝は吉良家に妹の三姫を訪問した際、腹痛におそわれ、そのまま死去してしまったのです。享年25歳という若さでした。米沢藩は大騒ぎです。後継藩主がいなければ、お家とりつぶしとなります。そこで、義央と三姫の長男である綱憲が米沢藩第4代藩主となり、逆に、上杉綱憲の次男、義周(よしちか)は、吉良家の養子となることになったのです。

(2)赤穂事件の概要
 元禄15年(1702年)12月14日の晩、元赤穂藩筆頭家老、大石内蔵助をはじめ、赤穂浪士47名が吉良上野介(こうずけのすけ)邸に討ち入り、上野介を殺害して主君の仇を討った、というのが赤穂事件です。「忠臣蔵」ともいわれ、語り継がれています。
 事件の発端は、その1年半前の元禄14年(1701年)3月14日、播磨赤穂藩藩主の浅野内匠頭(たくみのかみ)長矩(ながのり)が、江戸城の松の廊下で吉良上野介義央に斬りかかったことでした。
 浅野内匠頭は、皇室の使者を迎える準備に携わっていました。しかし、そのおり、要領を得ないでいた浅野内匠頭は、吉良上野介の不興を買って馬鹿にされたと思い、発作的にその愚行に及んだといわれています。
 浅野内匠頭は、そばにいた大奥留守番役から必死に抱き止められましたが、上野介は背中と眉間に傷をうけてしまいました。
 江戸城内で抜刀することは、絶対的な禁止事項でした。事件を聞いた徳川家第5代将軍、徳川綱吉は激怒し、その日のうちに内匠頭に切腹を命じたのです。
 以上が赤穂事件の概要です。

(3)大野九郎兵衛
 赤穂藩の家老職だった大野九郎兵衛は、赤穂事件の際、板谷峠で吉良義央を待ち伏せしていたといわれています。その訳は次のようです。
 大石内蔵助の吉良義央への仇討ちが失敗した場合、吉良の長男である綱憲を頼りに、吉良義央は、三姫とともに密かに上杉を頼って米沢に逃れてくるかもしれない。その際、吉良義央を待ち伏せするべく、米沢の板谷峠にて、木こりに扮して第二陣として潜伏していたといいます。
 しかし、討ち入り成功の報を聞いた九郎兵衛は歓喜し、その場で自害したといわれています。これが、大野九郎平衛の物語りになります。しかし、真相は不明です。
 図4-2は、板谷峠にある大野九郎平衛を供養する碑で、図4-3その案内板です。碑と案内板は、奥羽本線峠駅の車道より徒歩10分程の所にあります。

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5-5 伊能忠敬の米沢測量の道

 伊能忠敬は、日本全国の実測図、大日本沿海輿地全図を完成させました。全国ですから米沢もその行程にありました。

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 寛政12年(1800年)、江戸幕府の許可を得て、東日本の測量を開始します。その時、忠敬は55歳です。
 伊能隊に対して、幕府から次のような趣旨の通達が関係する各藩に送られていました。
「伊能忠敬測量隊が江戸、日光、白川、若松を経て米沢に至り、その後上山から津軽の三厩(みんまや)まで測量してまわる。しかるに、人足5人、馬3疋を用意してほしい。費用は地元負担でお願いしたい。」
 測量は第10次までの行程が計画されていました。米沢の測定は、享和2年(1802年)の第3次行程です。表1は、米沢を含む部分の行程です。
 享和2年(1802年)、7月10日、江戸を出立。奥州街道を郡山まで行き、途中、猪苗代、会津若松から米沢に至る会津街道を経由して羽州街道に入ります。さらに、山形、秋田、津軽半島、三厩(みんまや、青森県東津軽郡)まで行き、主に裏日本一帯から信州を経由する132日間の行程した。このとき、忠敬は58歳になっていました。

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 福島から米沢への行程は、郡山から会津若松、喜多方、そして、桧原宿から綱木村を経て米沢に入る、いわゆる旧会津街道を通るルートが選ばれています
  表1は、会津若松から米沢を山形に至る行程を整理したものです。米沢は、享和2年(1802年)8月1日、綱木村に1泊し、翌日2日に城下町に入っています。

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 次は、桧原宿から綱木村に出立する8月1日の伊能日記です。
「8月1日、朝曇り、六ツ半(午前7時)桧原宿の喜兵衛宅を出立した。この朝も会津藩の物書、服部善内は忠敬に最後の挨拶に来た。測量隊は、金山より大川の川沿いを北上した。道幅一間ほどの米沢街道には、鷹巣の一里塚、会津藩の口留番所がある。1里19丁、奥州、羽州の境界となる桧原峠に至る。ここまで会津領奥州耶麻郡なり。服部善内並びに桧原村宿御役人送り来る。これより則出羽国置賜郡にて米沢領なり。綱木村番所、米沢藩の役人も桧原峠領界迄出迎え待居、米沢領綱木村、四ツ半前(午前11時)止宿の問屋、検断中川久四郎宅に着く。」
 日記は続きます。
「旧暦7月5日(同8月2日)六ツ半頃(午前6時)、綱木宿を出立し、駅場の関町、立石村、李山村、笹野村の測量を実施し、一行が米沢城下入り口に着くと、徒士が先払いし、町役人が米沢城下東町の本陣遠藤孫左衛門宅に案内され、九ツ頃(正午)に着いた。米沢城下は上杉治広公15万石の居城である。遠藤孫左衛門宅の真向かいは検断、石田源十郎宅である。石田家は直江兼続の盟友、石田三成の子孫であるといわれている。また、この遠藤家は町医師格で、間口十間、繭、生糸、からむしなどを扱う大店でもある。」
 米沢盆地と赤湯、上山方面を結ぶ道は、米沢街道または赤湯街道ともよばれていました。赤湯村、上山、中山村と北上し、三本松で羽州街道と合流します。山形、東根、尾花沢、新庄、舟形町、金山を経て秋田県湯沢へと向い測量をし、図面も描いて行ったのです。

5-6 イザベラ・バードの日本旅行の道

  イザベラ・バード(1831年~1904年)は、イギリスの女性旅行家、紀行作家です。1831年、英国ヨークシアで牧師の長女として生まれました。病弱でしたが、医者にすすめられて航海や旅行を始め、20歳代から各国を回って数多くの旅行記を出版しました。

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 明治11年(1878年)6月から9月にかけて、通訳兼従者として雇った伊藤鶴吉と共に、東京を起点に日本海側から北海道に至り、また10月からは、神戸、京都、伊勢、大阪等の西日本を訪ねています。
 東京から山形近辺まで経路は次のようです。
   東京 → 春日部 → 栃木 → 日光 → 会津 → 新潟 → 小国
    → 置賜 → 赤湯 → 上山 → 山形 → 新庄 → 横手 

 新潟から赤湯間は越後街道であり、赤湯から上山までは米沢街道、上山から横手、青森までは羽州街道を通っています。北海道の平取には、8月22日に到着しています。アイヌの部落を訪れた後、函館に戻り、函館から船で横浜に戻ったのは、9月17日、約4ヶ月に渡る旅でした。
 バードが新潟を出発して十三峠を越えたのは、明治11年(1878年)7月11日から7月13日にかけてですが、その間、ほぼ半分が雨の中でした。徒歩や牛、馬に乗って踏破したと記されています。

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 図6-3は、片貝から市野々まで、図6-4は、沼沢から羽前小松までの、バードの越後街道越の経路を示しています。十三峠については、関川村の榎木峠と鷹巣峠を除いて、大里峠から諏訪峠までの11の峠が示されています。越後街道は、現在の国道113号線に沿うようにありますが、図3では、片貝から大里峠、玉川を経由して小国に至っていることがわかります。
 図6-5は、川西町の洲島から蔵王に至る経路です。羽前小松から、洲島、夏茂を通り、米沢街道を北上し、赤湯では白竜湖を見ながら鳥上げ坂を登り、上山温泉で泊となります。

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 後に出版された「日本奥地紀行」には次のように記されています。
「南に繁栄する米沢の町があり、北には湯治客の多い温泉場の赤湯があり、まったくエデンの園である。(中略)、実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアルカデアである。(中略)山に囲まれ、明るく輝く松川の水で灌漑されている。どこを見渡しても豊かで美しい農村である。」
 図6-6は、白竜湖から北条郷、米沢平野を望む風景です。

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 なお、表6-1は、日本紀行に記されたバードのメモについて、新潟から楯岡までを整理したものです。

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次回は、「第6節 米沢藩の医学史」についてです。





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