見出し画像

桜はまだか_2024年3月25日/雨

なんか、むずむずするのだけど。
ここのところ、桜の花が咲きそうで、咲かないでいる。
そんななかを歩いていたら、
「桜まつり」をやっているところを、3ヶ所も見た。
「日にちを決めたからやっちゃおう」というまつりは、
どこも町内会のテントをいくつも出して、けっこう賑わっていた。
フランクフルト焼き、あまざけ、なんて地元の人の出店があったり、
だれかが食器とか靴とか雑貨とかを売ってたり、
「ステージ」ではどこかの歌手が大ボリュームで唄ったり、
そういうのをあちこち見ながら、飲み食いする人もいっぱいいた。
確かに「まつり」ではあるけれど、
なぜかハッピに股引き姿のおじさんが、テントの下に座りこんで、
これまた酒酔いでご機嫌だったりもした。
だけど、桜は咲いてないし、だれも桜を見ていない。
いままでは花が咲いていたから気づかなかったけど、
もしかして、「桜まつり」の「桜」ってやつは、
わいわいとみんなで集う口実だったのではなかろうか、と思った。
桜が咲いたから集まろうよ、とね。
「イベントコーナー」で、ミニSLに子どもを乗せたりしているのを見て、
花というより、集まりたいから集まってるんだと思った。
考えたら、夏と秋は「まつり」があって騒げるけれど、
春には浮かれてもよいとする理由がないのだ。

なんなら、
薔薇のきれいな5月に「まつり」をやってもいいかもしれない。
藤棚だってみごとな花だし、
チューリップ畑のようなところなら、かわいい「まつり」になりそうだ。
でも、そういうことはしないのですね。
春は、桜の木に集まりたいというのが、
桜が桜として存在する所以なのだろう。
なんというか、
「大木から花びらがひらひら舞ってくる」という、あの桜の所作が、
「まつり」に欠かせない「舞台装置」なんですよね。
キャンプでは、「火」がその気のスイッチを入れるように、
桜の「ひらひら」が、人の心を舞い上がらせてしまうのはなんだろう。
ソメイヨシノが普及したのは明治時代というけれど、
「ひらひら」の「舞台装置」は今ではどこでもみられて、
これはもう社会インフラみたいなものだ。
駅でもビルでも公園でも、
なにか建てるときに、もしも木についてアンケートをとっても、
いちばん「植えたい」という木は桜ではないだろうか。

桜の「ひらひら」といえば、
そうだなぁ、歌謡曲のせいなのかな、
どちらかというとセンチメンタルなイメージが強い。
別れで、旅立ちで、けじめで、思い出、
頭のなかで思い浮かべると、せつなさが迫ってくるものだ。
だけど、実際に「ひらひら」をみたら、
きれいだなぁと見惚れるし、わたしなどはその中にまみれたいとも思う。
人としゃべりたくなるし、いつもと違うことがしたくなる。
センチメンタルと興奮がごたまぜになって、
じぶんの中が揺れに揺れたりする。
花見とは、自然の営みと己の関わりに思いをはせることをいう。
それはその通りだし、そうは思うけれど、
でも、単純な「うわぁ」っていうヨロコビをね、
こっちを、ただ味わうってことでもいいんじゃないでしょうかね。
だって、その「舞台装置」はたくさんあるのですから。

とくに花が咲いていないのに、
その下で、飲んでも食べても、踊っても、唄っても、
だれも不思議に思わない、
そういう木なんですね、桜というのは。

というわけで、今年も「ひらひら」を見たいぞ、と待っているわたしです。



よんでくださった方、ありがとうございます! スキをくださった方、その勇気に拍手します! できごとがわたしの生活に入ってきてどうなったか、 そういう読みものをつくります! すこしでも「じぶんと同じだな」と 思ってくださる人がいるといいなと思っています。