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フミサン:雪上のシルエット

雪は白い。本当にそうかな。私の記憶の中の雪は、青い。一晩でいっぱい降った翌朝の雪は灰色を帯びた青い縁取りがある。それは窓の近くまで迫っていて影ができているからだったり、止んでもまだ曇ったままの重い空の色を映していたからかも知れない。時々、雪は白を通り越して光だったりもした。いっぱい降った翌朝に晴れると、目を開けていられないくらい眩しい光になる。その白さを通り越した「超白」は目から入るというよりも全身から入ってくるので、一瞬で胸がいっぱいになる。すると自然と人は目を細めるので、一種の笑い顔になり、こういう時、雪の方も笑っていると思った。とすると、青い雪は怒っていたのかしら。そんなことは多分ない。少し寂しそうな陰影を湛えた青い雪も、よく見ると一面にありとあらゆる形をした小さな雪の結晶を乗せていた。雪の結晶はどんな時にも微笑んでいる不思議なヤツらなので、青い雪もまた、ただ静かに、包み込むように瞑想していたように思う。

降った雪と、屋根から降ろした雪が合わさると、窓の外に高い壁ができる。窓の下の方には冬が来る前に巨大な長いまな板のような横板を数枚連ねて囲いをしたので、雪が窓ガラスを直撃することはない。軒からは豪快なつららがたくさん下がっている。龍の牙みたいなのもあったし、まだ成長過程のつららの赤ちゃんも仲良く並んでいた。赤ちゃんつららとよく遊んだ。ほっぺたを赤くした子供に無惨にも折り取られる運命は赤ちゃんつららにとっては迷惑だっただろうが、手の上で溶けてゆく透明なそれをじっと眺めたり、時には舐めてみたりするのは楽しかった。窓ガラスに迫る青い雪の「舌」と、つららの「歯」の間に、冬の狭い窓があった。

一月十五日の朝、その窓が映画館のスクリーンになる。そこに現れるのは、雪の上に踊る、一つのシルエット。そのくらいの時期の雪は「しみわたり」ができるほど表面が凍っていなかっただろう。少し雪に埋まりながらゆくその足元は、長靴だったか、それともカンジキをはいていただろうか。その人の体は痩せてとても軽かったから、カンジキなしでも雪にそれほど埋まらなかったんじゃないかと思う。シルエットは、冬の庭を飛び回る。魔女という言葉が西洋風すぎるなら、山の精とでも呼ぼうか。もちろん、いつもと同じ、体に馴染む着物を来ている。モンペは履いていただろうか。手慣れた様子で、着流しのままチョイっと長靴を履いて雪の上に乗ったんじゃなかろうか。腰巻きだけでパンツは履いてなかったはずだから、スースーしなかっただろうか。右手に鉈、左手に鍋をもったシルエットが、雪山に埋まって枝だけ見せている桃の木に近づく。夏にとても小さな、形の整わない実をたくさんつけるその木に、鉈が振り下ろされる。「なるか、ならんか」少し芝居じみた声が雪にエコーする。そして、木の元の雪の上に小豆の煮たのを食べさせる。赤い葡萄の木にもする。もう一本の緑の葡萄の木にもする。私は映画を中から見ているだけでは我慢できなくなって、窓を開ける。それでも我慢できなくなって、映画の中に飛び込んでいく。私は山の精よりもっと軽いから、雪の背中をつぶさずにそっと近づくことができる。フミさんの鉈がいよいよ無花果の木に振り下ろされる「なるか、ならんか」。うわあ、切られてはたまらない。私は夏には熟れて口を開け、蟻がいっぱい群がる無花果になって、思わず「なります、なります」と言い、無事、無花果は小豆のご褒美をもらった。

山の精が去ると、雪の上には点々と赤い色だけが残る。木々も大概びっくりしただろうが、春の伊吹がコンコンという鉈の音で眠りから覚め、ここからまだ厳しい冬の日が続く奥底に、一筋の春へのトーンをこっそり潜ませていく。雪の中でも木々は生きていて、春への準備をしていることを、その日はっきりと知る。雪も木も土も、何かもっと大きな流れの一つだから、降ったり溶けたり染み込んだり芽吹いたり、それもこれも同じことで、私もその中にいるのかなあ、というようなことを、言葉にはできない子供はただ目を丸くして、頬を赤くして冷たい空気で受け止めている。足に雪がちょっと入った。靴下が濡れちゃった。

と、スクリーンの中から日常へと戻った山の精は、何事もなかったように朝ごはんのお味噌汁を作るため、今度はトントンと葱を刻み始めた。

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