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「社会の現実」と、「綺麗事の世界」を統一してくれ!っていう話。〜発達障害の子どもを持って〜

こんにちは。

 いつもは普通学級に入れることを推奨している私ですが、今日は少し違う側面についても書きたいと思います。
 普通学級に入れて一年半。常々思うことは、発達障害の概念がここまで広がって、発達障害のみならず、社会がこれからは「個の時代」とか堂々と言っちゃって、さらに「一人一人、成長の速度は違うんだから。発達障害であれ、定型発達であれ、皆んな違って皆んないい。学歴社会じゃないんだから、好きなことをさせてあげて!」と言われる。


…はいはい。
こんな話は、実は綺麗事で
多くの公立小学校で、こんな事はまかり通りません。

皆んなが皆んな、「右向け、右」の世界。
それは昭和からは何も変わっていないのだな、と常々、思います。

どんなに「個の時代」といっても
日本の公教育はさっぱり変わらないということ。
普通学級に入れて親ががっかりすることって、そういう事なのだと思います。


うちも実は、何度も担任にはチクチクと言われ、
一年生の時の夏休み前には、
「引き算がわかっていないから、お家で引き算を毎日やってください。」
と念を押されるように言われました。

それだけではなく
「皆んなができるから」
「皆んながやっているから」
日本の教育って、いつもこれが付きまといます。


皆んなと足並みを合わせなくちゃ。
せめてついていけるようにしてあげなくちゃ。

そのために、息子が嫌がるくもんにも
心を鬼にして通わせ、何とか引き算やその他の勉強についていけるようになったものの
くもんに行かせる時間があったら、息子が好きなことをやらせてあげられたのでは?
(好きなことを見つけてあげられたのでは?)と、何度思ったことか。


今、世間で言われている
「子供の好きなことをやらせてあげて!」なんていう綺麗事は
実は、知的にいっぱいいっぱいの発達障害の子にとっては
幻想であったりもします。


定型発達で、特に知能に恵まれているお子さんは
通常の授業だけでもクラスについていけるので
特にそこまで授業外で頑張らなくても苦労しません。そのため、余暇の時間を好きなことに使えます。


ところが、知的に少し遅い子供は、
授業外に相当頑張らないと、担任からの風当たりも厳しくなり、本人も辛い思いをする。だから親も授業外で頑張る。
結果として、「好きなことをやらせてあげる」なんていう時間は到底持てないことになってしまうんです。



例えばこの夏休み。
公立小学校の普通学級では、一年生であれば
・朝顔の観察日記
・朝顔がいくつ咲いたかの記録
・絵日記
・読書感想文
・自由研究

あたりが出されると思いますが
これも一定レベルでの水準の出来栄えで提出しないと
本人に対する風当たりも厳しくなりますし、
また親もチクチク言われるわけです。


そしてこれらをこなしていたら
夏休みなんて好きなこともさして出来ないまま
あっという間に終わってしまいます。
(発達障害で知的に遅れが少々あると、人よりずっと時間がかかります)

また、一年生の時、うちは
ちゃんと育てていたにも関わらず、朝顔がたくさん咲かなかっただけで「普通、もっと咲くはずですけど?」と責められました。


普通、咲くはず。


要はそういうこと。一事が万事です。
全てにおいて、「普通」が求められます。


もちろん、これらは担任がどうかによるのですが
うちが一年生からこういう状況だったということは
少なくとも公立小学校が、まだまだこういう教育をやっているということ。

何かに突出していることが好まれるのではなく、本人の興味が優先されるわけではなく、個性なんて認められるわけもなく、ただ、全ての能力が一定以上であることが求められる。そして、人に迷惑をかけないことが最も優先される。

周りから、
「個性が大切にされる時代だから。個性を大切にしてあげて!」とか言われるたびに
「いやいや、私としては個性を大切にしたいのは山々なのですが、公教育がそうはさせてくれないのです…」と言わざるを得ない。

綺麗事…「個性を大事に。」
公立小学校の現実…「皆んなと同じように。」

普通学級に通わせている親の苦しみとは、こういうダブルスタンダード?に板挟みになる所にあります。
公立小学校は、まだまだ昭和の教育です。

何が、風の時代だ?
何が、これからは個性の時代だ?

と。

それでも、公立小学校の普通学級に今の時点ではメリットがあるので行かせているわけではあるのですが、では、これからどのようにしていくか?という事については、また後日書きたいと思います。

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