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映画「ジョーカー/JOKER」とSNSにおける善悪への違和感。

今年映画館で観た映画の中で一番心にずっしりと残っている映画がドットフィリップス監督の「ジョーカー」だ。

2008年公開のクリストファー・ノーラン監督「ダークナイト」のヒースレジャー版ジョーカーの衝撃がいまだに忘れられないからこそ、「この映画は、なんとしてでも観たい」と思って、今年一番公開を楽しみにしていた。

観終わった後しばらく、やりきれない気持ちと、言葉にできない違和感「??」のようなものが心と頭を侵食していた。うまく言葉に整理できなかったのだが確実にわかっていたのは、本当に素晴らしい映画だった・・ということだ。ストーリーはもちろんのこと音楽、主演アーサー役のホアキン・フェニックスの演技も本当に素晴らしかった。

翌日になってさらにモヤモヤしたと気持ちが強くなってきたので、他の人の感想を観てみようと検索すると、「ジョーカー考察」が結構たくさん上がっていたのにはびっくりした。今回はそういう意味でも思いがけず2段階で面白さを体験してしまった。

色々な考察があり自分としても色々と考えさせれらた作品だったが、ある言葉が頭の中で巡っていた。

善悪は主観でしかない。

劇中ジョーカーが言った言葉だ。

ちなみに同じようなことをこの方の記事でお見かけし、恐縮ではあるが、とても共感した。

クリストファー・ノーランの「ダークナイト」を観たときにも感じたことだが、人にとっての善悪というのは環境や置かれている立場で大きく変わる。言い方を変えれば、善悪の判断を間違えてしまうことは往往にしてあると思う。今作ジョーカーの中で主人公アーサーは明らかに殺人者だ。通常の世の中であれば当然殺人をおかしたアーサーは悪人であり、それを裁く法や警察という体制が当然善になるはずだ。しかし映画の序盤から中盤まで、あまりにも恵まれない生い立ち、人から理解されない持病、不当な解雇、家族の介護、虐待の過去、富めるものと貧しいものとの格差が広がる混沌とした世の中。そういったアーサー自身の生き方や環境を見せられた後、アーサーに「彼は悪人だ」とは思えない自分がいた。そのことこそが今作の真理ではないだろうか。

正直に言えば、アーサーが、軽快なステップでダンスしながら階段を降るシーンには、ゾクゾクしたし、「ジョーカー」へと変貌していく様を心のどこかで気持ちよく思っている自分がいた。そしておそらく監督の狙い通りか、そのシーンの挿入歌がまた最高にかっこいい。

ゲイリー・グリッター「Rock'N'Roll Part2」


もう一つ、映画「ジョーカー」の終盤で、ジョーカーが警察に逮捕されて、荒れ狂うゴッサムシティをパトカーの車窓から眺めていたとき。悪のカリスマが誕生したシーンと言えるだろう。このシーンでも音楽、映像、共にしびれたシーンだ。

Cream 「White Room」

これはあくまでも個人の感想だが、我々は(きっと)ジョーカーの狙い通りに、不遇な彼に同情し、そして次第に彼が悪のカリスマとして君臨していくさまをかっこいいと感じ、共感し、そして最後にはこれまでの善悪の判断を逆転してしまう。そしてこの物語を「ジョーカーの全て妄想説」とするならば、きっとこうした物語をジョーカー自身が語ることにより、悪であるジョーカーへ民衆が傾倒していく滑稽な様を、あざ笑っていること、これこそが”ジョーカー的怖さ”であると思う。

日常でもこれは善なのか、悪なのかと悩むことがある。

特にSNSでの炎上を見かけるたびにに感じる。何かで叩かれている人がいる。その人には何か悪いと思われる理由はあるのかもしれない。しかし正義を振りかざして何事にも正論で他者を攻撃すること、それは善なのだろうか?誰もが発信できる社会だからこそ、自分にとってこれは正しいのか?間違っているのか?という判断がより求められるのだと、感じることがある。(余談だ)

堅苦しい話はさておき、映画ジョーカーの本当の素晴らしさは、観客に色々な考察させることまでを含んだ映画としてのエンターテイメントであるということだ。

様々なコンテンツや情報がたくさん溢れている今、記憶や心に残る作品はどれだけあるだろうか。だからこそ、このような骨太な映画がより素晴らしいと思える。

そして「これだから映画はやめられないなあ」とつくづく思うのだ。


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