![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/62180093/rectangle_large_type_2_65968d7a0b7af9c81f7dbaa3a6611bf1.png?width=800)
今も大切な、祖父の言葉
私は、小さい頃から一緒に暮らしていた祖父のことが大好きだった。
祖父は長年農業をしていて、毎日朝早く起きて畑に行き、昼には大盛りのご飯を食べて、昼過ぎにまた畑に行き、夕方にはシャワーを浴びてテレビを見ながらくつろいで過ごす、というような暮らしをする人だった。
「毎日、畑に出て農作業するのは大変じゃないの?」
と、幼い頃の私が聞くと、
「自分の好きなようにできるし、誰にも指図されないから、すごく楽しいよ。」
とよく言っていた。
時々、私も祖父についていって、祖父と一緒に大きな木の上に登ってお昼寝をしたり、畑の中で一緒にお弁当を食べたりしたこともある。
祖父は手先がとても器用で、農業用のビニールハウス作りの名人としてある一部の人の間で有名だったようだ。
だから、時々遠くの県の人にビニールハウスづくりをお願いされて、出張に出かけることもあった。
マイペースで能天気な祖父は、出張に出ると帰ってくるまでの数ヶ月、一切連絡をよこさないので、よく祖母が「本当に生きて帰ってくるのかしら」と心配するほどだった。
祖父は帰ってくるなりその土地の魚がどれだけ美味しかったか、とか、初めて食べた名産品について目をキラキラとさせて語ってくれた。
普段は寡黙な人だったけれど、この時ばかりは饒舌で、私はその話を聞くのがとても好きだった。
私が食べることが好きなのは、もしかしたら祖父譲りかもしれない。
それに、1人でマイペースに過ごすことが好きなところも、私は祖父に似ているような気がする。
祖父は、家の次男として生まれた。
だが、長男が小学生のうちに病死し、その後戦争から帰ってくるとすぐに父親を亡くした。
たった21歳で、一家の大黒柱として下の弟や妹のために家庭を守らなければならなかったのだ。
2人の弟は東京の大学へ進学し、1人は最終的にゼネコンの社長になり、1人は教師となった。
祖父は本当は建築士になるのが夢だったそうだが、それを諦めて全てを弟や妹たちのために生きる道を選んだ。
21歳から80代になるまでずっと、実家の農業を60年以上続けて生きてきたのだ。ビニールハウスを作る名人だったのだから、きっと立派な建築士にだってなれていたはずだ。
実際には、祖父の口からこれらの過去を聞いたことはない。
全て周囲の人が教えてくれたことだ。
「この家があるのも、僕たちがいるのも、全て兄さんのおかげだ」
と、時々会う叔父さんたちはみんな、口を揃えて言っていた。
祖父は自分のことをほとんど語らない人だった。
愚痴を聞いたこともあまりない。
時々自分の好きな力士が負けた時にちょっと怒ったり、テレビの中の政治家の発言に、馬鹿だなぁと言うことがあるぐらいだった。
「言っても仕方のないことは、いわないんだよ」
入院してい祖父に、「おじいちゃん、辛くないの?」と聞くと、いつもそう答えた。
その時はなんとなくスルーしていたけれど、祖父が亡くなり何年かしてから、私は祖父がよく口にしていたその言葉が、不思議とよく頭に浮かんでくるようになった。
「言っても仕方のないことは、言葉にしないんだよ」
これは諦めの言葉ではなく、希望と思いやりに満ちた言葉だった。
たとえ正義や正解だとしても、周囲が不快に思うような言葉や、言葉にするべきではないようなことを祖父は絶対に口にしなかった。
祖父のそういう部分が私はきっと大好きだったのだ。
今、現代を生きていると、何でも言葉にしたり怒りをぶつけることが正しいことだと錯覚しがちだが、私はいくらか祖父の言葉を信じていたいと思っている。
先日、実家に立ち寄ると、地域の人が今も祖父の思い出話に花を咲かせてくれることがあるらしい、と言うことを母から聞いた。
どうやら外ではなかなかお茶目な人だったみたいだ。
今は、私も少しでも祖父のように生きていけたらいいな、と願っている。
それに、私の夫が建築士であることを知ったら、おじいちゃんはきっと、すごく嬉しがっただろうなとおもう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?