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映画【パスト・ライブス】もう戻ってはこない過去との決別

映画「パスト・ライブス」は公開日のレイトショーで観た。映画が始まった時の私はまさか車の中で泣きながら帰ることになるとは思っていなかっただろう。

どうして泣いたのかはいまだによくわからない。
きっともう自分の人生の過ぎ去ってしまった、後戻りできない様々な瞬間を思い出してしまったからかもしれない。

中年になるということは、今後の老いを想像することではなく、過去を失っていくことなのだ、と気がついてしまったのだ。


私は過去の恋人に未練を持ったことがほとんどない。全くないと言ったらもちろん嘘にはなる。フラれた後、ショックで食欲が出なくて5キロも痩せたことだってあるし、別れた後も元彼が忘れられなくて手紙を書いたことだってある。(もちろん投函する直前で我に返って破り捨てたが)
でも、大抵は次の恋愛がはじまってしまえば過去の恋人の事なんてすっかり忘れてしまっていた。それどころか「どうしてあの人のことを好きでいたんだろう」と思うことだって何度もあったように思う。

ソウルで暮らす少女ノラと少年ヘソンは幼馴染。ノラは12歳の時に
親の仕事の都合でニューヨークに渡り、2人は離れ離れとなってしまう。24歳の時にSNSで2人は再会し、オンラインで交流を続けていくがやがて心が離れてしまう。さらに12年後、36歳のノラは同じ作家仲間のアーサーと結婚していた。そしてヘソンとノラはニューヨークで再会を果たすことになる。


過去の恋人に執着したことがない自分はこの映画の2人の24年に渡る恋愛(のような感情)には全く共感できるものはなかったはずだ。


それなのにどうしてこうも胸が締め付けられるのだろう。それはきっとノラにとってヘソンはかつての自分の写し鏡のような存在だったからではないだろうか。

36歳のノラはソウルからニューヨークへ移り住み、韓国名ではなく英名を名乗り英語を話す。一方のヘソンはソウルの大学に進学後、兵役を経て会社員になるという韓国人男性としてとても堅実な道を歩んでいるように見える。見た目も仕草も何もかもすっかりアメリカという土地に馴染んでいるノラと、ハグをすることさえぎこちない、アジア人のヘソン。久々の再会で、一見親密そうな彼らではあるけれど、目には見えない埋められない「時間」という溝が私たち観客にはっきりと見えてしまう。

35歳を過ぎた頃だろうか。
かつて同じ教室で同じ制服を着たはずの友人に久しぶりに会うと、身なりや話し方などから「明らかに自分とは違う人生を歩んできた」ということを感じ取るようになってきていた。それはきっと相手も同じように感じていたはずである。
「また近々会おう」と、少しぎこちなく別れるものの、大概の場合それっきりになってしまう。

24歳の頃はまだそうではなかったはずだ。
まだ「人生は自分次第でなんとでもなる」と思っていたからかもしれないし、そんなことを考える暇はなかったからかもしれない。

いずれにしても、30代半ば頃から急速に「自分はもうこの人生とはまるっきり反対の方向にいくことは絶対にないのだろう」と気がつきはじめたように思うのだ。

あのやり場のない感情と、「過去は絶対に戻ってこないのだ」という紛れもない事実を、この映画は突きつけてくる。

映画「パスト・ライブス」は監督セリーヌ・ソン自身の個人的体験に基づく作品と言われている。だからこそ恋愛映画という枠にとどまらず、誰もに身に覚えのある強い感情を思い出すことのできる作品になっているのだろう。

ラストシーンでヘソンと別れ夫に慰められているノラの姿に、同じような恋愛経験がないはずの自分さえも、思わず涙を堪えきれなくなってしまったのだ。


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