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ある夏の終わりに海で過ごした1日のこと

ある程度の年齢を過ぎてから、男女入り混じって雑魚寝をする、などという経験をすることは滅多にないだろう。


あの日のような1日は、あとにも先にも、きっと訪れないような気がしている。


当時、いい感じだった人が突然仕事を放り投げて湘南の知り合いが運営している海の家を手伝ってくると言い出したのは、ある夏のことだった。

学生時代の話ではない。ほんの数年前、私もその人もとっくにいい大人になってからの話だ。

彼はなにかにつけて行き当たりばったりな人間だった。

「ふーん…そうなんだ。1週間ぐらい?まあ、お気をつけて。」

当時の私は、彼と知り合ったばかりの頃とは違い、会社での仕事がようやく軌道に乗ってきていた時だった。
新しい部門へ異動し、毎週出張に出かけて忙しくもそれなりに充実した日々を過ごしていた。

何かに集中すると別の何かへの熱意が失われてしまいがちな私は、彼への気持ちは仕事の充実度と反比例して、次第に冷めていった。

もっと魅力的で知的な会話ができる人が世の中にはもっといるというのに、なぜこの人とだらだらデートなんてしているのだろう。

だが、そのぐらいの年齢の男女にありがちな「惰性」で関係をやり過ごしていたのだ。

先に進みたい気持ちもなかったが、だからと言って正式に別れるという選択肢も不思議となかった。
そんな時期だったのだ。


結局、その人は6月の末から8月の終わりまでの2ヶ月間、海から帰ってこなかった。


どうやら住処と食事を提供してもらう代わりに、毎日無償で手伝っているということだった。 

それについて私が軽蔑めいたことを口にすると、
「めちゃくちゃ学びがある。むしろこんな得なことはないわ。」と、信じられないほど平然な調子で彼は言った。

だが、たった数十分の打ち合わせのためだけに会社の経費で全国を出張し、同行する上司とのギリギリの駆け引きめいた会話に、お互い満更でもない気分で楽しんでいた私の毎日の方もまた、別の人間から見たら信じられないような日々を送っていたのだろう。

どちらにしたって、あの頃のような生々しい人間同士が交差していた夏の日々は、もう私の人生には訪れないような気が今はしている。

その8月のある日、思い立って私はその男がいる湘南へ行くことになった。

どうしてかは分からないが、2度とない機会だと本能が察したのだろう。
自分とは全く価値観の違う人に触れるのもそう悪くはないかもしれない。自分の中のあまり良くない方の好奇心が働いていた。

「とにかく、江ノ島の海に行けばいいんだよね?近くに来たらまた電話する。」

どう見たって私は海が似合うタイプではない。

何を着ていけばいいのかも分からず、白いタンクトップにその辺に置いてあったブルーのデニム履き、箪笥の奥にしまっていたJansportsのリュックに一泊分の荷物をつめて、家を出た。

江ノ電の窓ガラスにうつる自分の姿は、まるで潮干狩りに行く子供のようだった。電車内にはいかにも海が似合いそうな、こんがりと日焼けをし、手脚をナチュラルに露出しているカップルの姿や、バカンスに来ている風の家族の姿が見受けられた。

「なんだ。思っていたより楽しいかもしれない」

遠くの方に海が見えてくるにつれ一抹の不安は消えて行き、少しだけ気分は高揚してきていた。
そういえば、私はハワイや沖縄などのリゾートが結構好きだ。ここもきっと同じだ。

「おーい!こっちこっち」

最寄駅に到着して指定された場所へ歩いて行くと、海岸沿いに似たような海の家がずらりと並んでいた。若いのか若くないのかわからない日に焼けた男女の姿。遠くの方でDJが流す電子音と、目の前で行われているアコースティックギターの音色が重なり合っていた。
到着したのはもう夕方だった。
夕陽でピンク色に色づいた海、普段とは違う情景に気を取られていると、聞き覚えのある声がした。

「遠くからもその白い肌が目立ってたよ笑。自分、海にいなさそうなタイプだから。」

明らかに以前よりも日焼けした肌の彼がいた。そうか、私のことを、自分、とこの人は呼んでいた。
久々の再会だが嬉しさや懐かしさなどを感じることもなく、その場の少し異様な雰囲気に、日没と共に私は飲み込まれていった。

彼は周囲の人たちに私を紹介した。
どうも、こんばんわ。人見知りがバレないようにと仕事モードを発動させて営業スマイルで乗り切ろうとするつもりだったが、ここでは無理だった。
圧倒されていた。
酒と潮、男女の露出した肌から発せられるなんとも言えない甘ったるいようなツンとしたようなにおいが鼻をついていた。
暑さと、そこにいる人間たちの熱気や欲望のようなものに、意識が朦朧としてくる。

ひとまず、バーカウンターのひと席に座らせてもらう。電車での移動で、私は思っていたよりも疲れていた。

普段彼が一緒に過ごしているらしいスタッフの面面が一同に私に注目した。

「こんなとこ、よく来たね」

セクシーな水着の上から濡れたTシャツを着ている女子はおそらく私と同年代だろう。白タンクトップにデニムという尾崎豊スタイルの自分とは真逆で、ロングヘアと日に焼けた綺麗な肌の彼女の色気はこちらまで漏れ出ているようだった。
普段は都内で看護師をしているの、週末はここに来ているけど、とその女は言った。

その隣には最低でも10歳は上だと思われる、これまたこんがりと日焼けし鍛え上げられた上半身に幾つかの絵柄を彫り纏った肌を露出した男が顔を出していた。

綺麗すぎるツーブロックの艶のある髪型をしていて、目の奥深くに触れてはいけない冷たさを感じるタイプの男だった。

「こんな感じの子だと思わなかった。全然ギャル系じゃないもんね」


遠くの方に見える海は清々しいほど綺麗だったが、目の前の空気はなぜかどんよりと霞んで見えた。早くこの場から逃げ出したい気分だった。

だが、来たことを後悔するにはもう遅すぎた。
私は空きっ腹にマリブコークを立て続けに数杯飲んだ。こういう場所で飲むココナッツ系のカクテルは好きだったが、この時ばかりは全然美味しくはなかった。

その夜は、彼が予約を取っておいてくれるといっていたホテルに1人で泊まるつもりだ。

この場さえ乗り切れば、あとはもうホテルで風呂に浸かり、夜はひとりでYouTubeかなにかでコメディでも観ようと考えていた。 
明日は都内に出て、ひとりで美術館に行こう。
私はやっぱりそちらの方が向いている。

「せっかくだし俺たちの普段泊まっている家に来なよ。みんなと知り合えば、仕事にも絶対つながると思うし、たまには人付き合いもしたほうがいいよ」

私の期待とは裏腹に、彼は投げ捨てるように言った。

人付き合いが好きではなく、決まった友人としか会わず、映画か本かドラマの話ばかりしている私に彼は元々不満があったのだ。もっといえば会社員である私に。これが仕事にどうやってつながるんだ、余計なお世話だ、などと当たり前のことを思いつつも、これから宿を探す気力もなかった。
それに、安物のマリブコークのおかげですっかり感覚が麻痺していた。たった一晩だ。私は、諦めてそれに同意した。

そこは、広めの1LDKのマンスリーマンションだった。

まさかとは思ったが、そこに10数人で毎晩雑魚寝で寝泊まりをしているらしい。布団はないに等しい。寝袋のようなものを敷いてタオルケットにくるまって寝るしかなかった。一家4人揃って来ている人もいた。ここの小学生と幼稚園の子供たちは、どんな風に育つのだろうか。間違いなく私よりは逞しく育っていくに違いない。
蓋を開けてみると、意外にも彼らは皆、普段は比較的まともな暮らしをしている人だった。一夏の間だけ、この場所に毎年集まるということだった。

その夜、目が覚めたのは、夜中の3時だった。

移動と慣れない人との会話で完全に疲れていた私は、いつも5人ほどが寝ているという一部屋に入った。少しだけ、と横になっていたら、リュックを枕がわりにして寝落ちしてしまっていた。
起きてすぐに首のあたりに鈍い痛みを感じた。

同じ部屋には、さっき海の家で会った、二十代中頃で背中に「熱い仲間達に幸あれ」と書かれたTシャツを着ていた男と、鹿児島出身だと言っていた笑った顔が妙に印象的な女の寝顔がそれぞれにあった。

どうやらリビングではまだ数人が宴会を続けているようだ。

暗闇の中で自分のiPhoneを探し画面を開くと、都内に住む友人から「失恋した」と連絡が入っていた。

こんな夜中だが、こんな偶然もないだろう。

「今、私色々あって湘南なんだけれど、休みだったら明日こっちにこない?」

念のため詳細の場所と10時ぐらいにどうか、というような内容を送り、再度眠りについた。

次の朝、友人からは「10時着でそちらに行きます」というメールが入っていた。

私は皆が眠っている早朝に起き出してこっそりとシャワーを浴び、海の雰囲気には全然似合わない唯一の着替えである黒いノースリーブのワンピースに着替え、化粧をして、きちんと髪を整えた。
Jansportsのリュックを背負うとやっぱり潮干狩りの小学生のようだった。

彼はリビングで寝ていた。それをみても私は何も思わなかった。置き手紙でもしようかと迷ったがやめた。

ここでは常識とか配慮とかそういうものは、どうだっていいのだ。

誰もいない朝の海は、昨日見たそれとは全然違っていた。
空気が透き通っていて、水面がキラキラと輝いていた。昨夜のあれこれを、文字通り全て水に流してくれたかのように感じた。いい気分だった。

10時の待ち合わせの時間まで、駅周辺にあるファミレスで、パンケーキとソーセージのモーニングプレートを食べて待つことにした。

リュックの中から読み途中の小説を出したが、全く頭に入ってこないのですぐにしまった。

フレーバーコーヒーがこの場所に合っていて、おいしかったのでおかわりをした。朝のファミレスにはサーファー風の男女から近所のおじさんたちで混み合っていた。昨日あった人間のような風貌の人は何故か1人も見かけなかった。


「あんた、よくその状況で一晩を乗り切ったね。その話だけでもう、あの男のことなんてどうでも良くなってきたわ。」

友人と合流するなり昨晩の出来事を話すと、彼女は思いきり笑った。

昨日出会った人達の話を、彼女はとても聞きたがったので詳細に話した。
「じゃあ今日もその海の家に行こうよ。ちょっとみてみたい。」と言うので、周辺の観光をした後で昨夜と同じ場所に行くと決めた。

彼女は旅先のフランスで買ったという刺繍が素敵なヴィンテージの白いブラウスに、細めのデニムを履いて、大きくて綺麗なカゴのバッグを持っていた。彼女は失恋して傷心していても、いつも美しくて洗練されている。

海を前にして、私たちは水着姿の人々を眺めながら互いの仕事の話や恋愛の話をしていた。
なぜだかわからないが、不思議と全てのことが浄化されて流されてるいくような気がしていた。

私たち自身は私たち自身でしかないのだ、というように。

結局のところ、そこでの私たちは最後まで傍観者だった。いったん社会に組み込まれて明日の仕事のことや生活のことが頭の片隅にある以上、そこにいる彼らと同じ心持ちにはなれるはずはない。

行くべき場所はここではない。そんなことは、当たり前のことだ。

彼女の失恋も、私の終わりそうな関係性も、それ以上でもそれ以下でもなかった。

それから少しあとで、私は案の定その人とは自然に連絡を取ることはなくなっていた。

そんなことは、誰がみたって、自分自身にだってきっと最初からわかっていたことだった。それでも何故か、惹きつけ合う時期というのは確かにあったはずだった。だが、その頃にはもう全部忘れてしまっていたのだ。

その年の秋が来るまでの間に、私はそれまでギリギリを保っていた上司との壁があっさりと崩れてしまったりもした。
そのことが、その後の数年間、なぜか私を苦しめるほど頭から離れない出来事にもなった。

友人とはあの時のことは、なんかおかしかったよねと、笑い話で今も話すことがある。

あのような夏はもう私には来ないだろう。

愛おしくもないただの過去だ。 だがなぜか忘れてはいけないような気がしたので、ここに書いてみた。

遠い夏の日の思い出だ。


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