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「ケ」の写真を撮る人になりたい
「ハレ」と「ケ」という言葉がある。
ハレは、儀式や祭、年中行事などの非日常、ケは普段の生活、日常を表す言葉だ。
この言葉に則って言えば、わたしは「ケ」の写真が撮りたいらしい。
そう気づけたのは、ある友人の一言がきっかけだった。
◆◆◆
ここ半年ほど、友人と会うときにはカメラを持ち歩くようにしている。
先日も、友人に誘われ、朝から築地へ行ってきた。もちろんカメラを持って。
で、パシャパシャ撮ってきたわけ。
半日ほど周辺の街をうろつき、帰宅。撮った写真をLINEのアルバムにアップした。
すると、「ポポン」と友人からのメッセージ。
「写真の切り取り方に特徴出てるよね〜」
「食べ終わったあとを撮るあたり、fumiっぽいよ」
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/89764676/picture_pc_a1269a1f5ff6cc552013b526151b0889.png?width=800)
「ちょっと古い商店街も」
![](https://assets.st-note.com/img/1666707783437-TDUQhO4ouh.jpg?width=800)
えっ…そうなの……?
言われてみると、思い当たる節があった。
以前、同じ友人にこんな写真を納めた。
![](https://assets.st-note.com/img/1666707734555-1OwBUozB5l.jpg?width=800)
「小さいサイズの哺乳瓶、数ヶ月経ったら使わなくなっちゃうよなあ」と思って、撮影したもの。
飾った写真でもないし、決して映えてはいない。
でも、その子からは「この発想はなかった……!普段絶対撮らないよ」と言われた。確かに。
いやはや、自分らしさが写真の切り取り方に出ているとは、まったく気づかなかったよ。
◆◆◆
そういえば、先日読んでいた「あの人が自分らしい写真を撮れる理由」にこんな一文があった。
「写真を見る人は、全員が写真のことばかりを考えている人や、写真を撮っている人ということはあり得ません。写真を取らない人や、年齢、男女でも感性が違うので、いろいろな人に見てもらうのがいいと思っています。
それで、全員が納得いくような写真が撮れたら最高じゃないですか?」
アウトプットをどんどんして、カメラをやっている人以外にも感想を聞いて、うまくなろうという話。
友人のコメントを聞いたとき、この話がスッと頭の引き出しから出てきて、「ああ!こういうことだったのか!」と繋がった。
アウトプットすると、自分が気づかない感性やらしさを見つけてもらえるんだ……!
とすると。時にはポートレートも撮るし、記念日の撮影に携わっていた時期もあるけれど、わたしらしい写真って「日常」を切り取る写真なのかも。
◆◆◆
現代では、スマホの普及やインスタグラムの映えブームの影響か、カメラが「高尚な道具」になってしまった気がする。
でも、わたしが生まれた平成初期、カメラはもっと身近だったはず。
そんなに裕福でないわたしの実家でも、コンパクトなやつだけど、フィルムカメラを一台持っていた。記念写真ではなく、毎日の垢抜けない日常をたくさん撮影した。
その記憶が残っているので、コントラストの強い写真より、フワッと空気感に包まれるような、日常の一コマを切り取りたくなってしまう。
映えてる写真をインスタで眺めるたびに、憧れる一方で、映えたコントラストの強い写真を撮りたいのかと言われると、なんか違うような……?
今までいまいち言語化できてなかった感覚だったものが、友人の一言をきっかけにふっと言葉として舞い降りてきた。
そうか、わたしは「ケ」の写真を撮る人になりたいんだ!
じゃあもっと、日常を躊躇わずに切り取ってみよう。そして自分らしさを伸ばしてみよう。
実は少し迷走していたわたしに、一筋の道が拓けた気がした。
アウトプットをしたら、自分らしさを見つけてもらえるなんて。思わぬラッキーであった。
これからも躊躇わずに、どんどん外へ発信していくこと。大事にしたいね。
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