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八方美人でありたい自分に気づいてゾッとした

普段、不特定多数と関わる接客をしている。
そこで、急にハッとしたことがあって、拙いながらも言わずにはいえなくて。夜中に「誰も見てないかもだから、まあいっか」とつぶやいた。


「無知は恥ずかしい」

一方で、「可愛がられるためには無知な方が得かもしれない」

そんなことも思っていた。

一見矛盾しているようだけど、2つのスタンスを相手によって使い分けているっぽい。ハッとしてゾッとした……。


すると、ちょこちょこ共感のお言葉をいただいた。同じような方がいるかもしれないので、ここにも書きこんでおく。


無知は恥ずかしいことなのか?

自分の知識の総量は変わらないはずなのに、「無知は恥ずべき」「無知でいないといけない」を使い分けている、とはなんなのか。


例えば、知らないことを聞くと、「お前、そんなことも知らないのかよ」と舐めてくる人がいる。「ググりなよ」という人もいる。

知らないことは悪いことじゃないはずなのに、あ、無知は恥ずかしいんだ、と傷つき、刷り込まれて、わたしは素直に「それ知らないんだよね」と言えなくなっていった。

自分で調べる力も大事。でも頼る力も大事。わかっているのに、今もなかなか「無知は恥ずべき」が抜け切らない。


逆に、「教えたがりで、知識の総量が多くて発信したい人」「相手の優位に立ちたい人」にも多く出会ってきた。

そういう人が相手だと「知らないこと教えてください」のスタンスでいた方が、お互い気持ちよく過ごせる感覚があって、ちょっとおバカな方向性で振る舞ってしまう。

相手を見て、どのポジションでいったら「相手と円滑に関係を築けるか」「どっちなら怒られることを回避できるか」を判断して振る舞っていたのだ(たまに判断をミスるけど)。

相手に合わせて態度どころか、声のトーンも変わるし、これってぶりっこ?


人と円滑に関係を築くという点では、いいことなんだろうけど、ありのままの自分でいられないという点では、窮屈さもあった。でも無意識だったのよ……無意識の刷り込み、怖すぎない……?

根底にあるのは「見放されたくない」

よくよく振り返ってみたら、高校生のときのことなのに、今でも忘れられない出来事があった。

いじられキャラでいたくて、わざと自分はバカですよ感を前面に出していた時期があったわたし。

「いじられたいです」と表明したこともあるぐらい(黒歴史を越える闇歴史)。いじられることで傷つかないわけじゃない。心に小さな傷を毎日増やし続けながら、それでも誰かと一緒にいたかった。

「求められる自分」でいたかった。

結局、作ったキャラというのは脆く崩れていくもので、3年生の頃にはすっかり丸くはなっていたけれど、それでも、人と仲良くなる過程で近づいて離れてを繰り返す傾向にある。ちょっと試してしまうというか。


総合的に考えると「見放されたくない」んだろうなあ……。ほんとずるいなあ。


ただ、これらのことを変に落ち込まずに俯瞰できる状態になってきて、今の状態は悪くないのかなと思っている。

ちょこっとずつ、ありのままに知らないことは知らないって言おう、と心がけていて、自分の無知さを改めて痛感しているけど、いいの。

「見放されたくない」恐怖から一歩踏み出してみたい、そんな最近!

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