オリジナルの『バナナはおやつに入りますか?』覚え書き
次のような話だったと私は記憶している。(登場人物は『スイーツはおやつに入りますか?』です)
1、ミホとキョウコはクラスメイト。
2、キョウコは道中でキャラメルを食べていて(遠足規則的にグレー?)、景気良く友達に配り、ミホもそれを貰った。
疑念を抱いたミホは、キョウコの挙動が気になる。
おやつ時間、キョウコはいち早く手持ちのおやつが無くなって困る……、ような事態にはならない。アリとキリギリスのような話にはならなかった。
【重要ポイント①】
状況証拠からすでに、キョウコは予算超過したおやつを持ってきている疑いが濃厚だった。
3、その日、キョウコはお弁当のデザートにバナナを持ってきていた。
4、ミホは後日の学級会で『バナナはおやつに入りますか?』と先生に尋ね、そこで物語は幕を閉じる。
【重要ポイント②】
これは終わった(済んだ)話である。納得のいかないミホは蒸し返すかたちで問題提起をした。
かたちだけでも「融和」を至上とする人は、些細なルール違反者であるキョウコよりも、ミホの行いに眉を顰めるかもしれない。
5、登場人物の心情、背景ははっきり描かれていない。
物語はコンパクトにまとめられていて、解釈の余地がある。それは情報が不足しているとも言える。
【重要ポイント?】
日本の有識者の好む『行間を読む』が求められている?
果たして、作者の意図はどこに向いているのだろうか?『解答』『お手本』が明確に示されていないので、ある意味『考え、議論する道徳』に絶妙な教材かもしれない。
●あれはいったい誰の問題だろうか?
この物語、ミホは『あなたはルール違反を犯しているんじゃないの?』とキョウコを追求したいのは間違いない。
その結果が、あの『バナナはおやつに入りますか?』発言。ミホはキョウコに『私は気付いてるよ。あなたはどうするの?』というメッセージを暗に伝えるかたちを選ぶ。それが議論のポイントだ。
そこで婉曲な行動に至ったミホの動機について、3つ捉え方を考えてみる。
【1、逃げ腰の注意である】
直接注意して、気を悪くしたキョウコに責められるのは御免なので、『そんな意図じゃない。それは誤解だ』と言える逃げ道を用意した上での注意。
ルール違反者にせめて皮肉だけでも言いたいが、トラブルはイヤ。
……この解釈に好感情を抱く人は少ないと思う。
しかし、『告発するなら正々堂々、ノーガードでやれ』と自己防衛・保身の姿勢を非難して、その告発の正当性から目を背けてしまうような真似は如何なものかと私は思う。
その精神性ゆえか、日本は告発者保護制度の整備に消極的だと聞く。臆病ではなく、理性的な選択(その人にとって精一杯、最善の行動)だと解釈はできないか?
この国では、公共の場で個人を特定して評価すること、ことに非難することをきわめて嫌う。これは「特殊日本的基本的人権」の核心部分をかたちづくっている。人々はルール違反する個人に対してとても寛大なのであり、とても「優しい」のである。その人を傷つけないように最新の注意を払い、その人を公衆の面前であからさまに責めたてるのは「かわいそう」なのだ。
中島義道『〈対話〉のない社会』
苦い思い出がある。あれは私が小学3年生、クラス替え直後の事だった。
クジの結果、隣の席になった子は、事あるごとに私をつねってきた。
私はガサツな子供だったかもしれないが、意地悪なことをした覚えはない。今思うと、それはその子なりのコミュニケーションだったのかもしれない。しかし、手加減せず爪を立てて力一杯つねる (ケンカをしたことがない、一人っ子だったのだろうか?) ので、とても痛く、私の肌にはしばらく跡がついた。
怯えている小動物が相手なら、血が出るほど噛まれても平気なあの姫様と違い、私は耐えられなかった(直接『止めて』とは言ったと思う)。
ある日、私はその事を帰りの会で暴露し、改めて『止めて欲しい』と言った。それから、その子の行為は止まったが、私は周囲の子から乱暴な扱いを度々受けるようになった。
果たして、私はどのような対応をするのが一番だったのか?今も度々考える。
……あの後、その子とは一切話した覚えが無い。その子と徹底的に対話すべきだったと思う、それが大きな後悔だ。
一方、「特殊日本的基本的人権」の大義名分の下(?)、乱暴な行為を働くようになった人達とは、今も関わり合うことに抵抗がある。
【2、前項の逆、相手が傷つかないように配慮、相手の逃げ道を用意した上での告発】
・先生の答え『バナナがおやつに入る』場合
→『そっか。あなたはそこを勘違いしていたから、予算超過しちゃったのね?』
・先生の答え『バナナがおやつに入らない』場合
→『ああ、あなたが予算超過して見えたのはバナナのせいか。私が計算違い、思い違いしちゃったのね?』
どちらも、キョウコをルール違反者として告発する意図に変わりはない(直接的な言葉にすることなく、焦点をバナナへ逸らし、暗に伝えるかたちで)。
ただ、『ゴメンなさい、もう二度と紛らわしい真似を起こさないよ』という(暗に)[規則違反の反省]と[規則遵守の約束]の言葉を引き出したいのである。
私はこれを道徳的だと思いたくない。推奨したくない。
思いやること、慮ること自体を否定する気は無い。
悩み、考えた尽くした結果、優しい『バナナはおやつに告発』を選んだ人を責める気などは無い。個人的には「よく考えたね」と褒めたいとも思う(というより、こういうフォローをしてくれる人が傍にいないと悲惨)。
しかし、それを道徳的鑑だという『答え』を出させる、勧める、礼賛する姿勢は論外だ。私は断固反対したい。
何故なら、被告であるキョウコの自己防衛する権利、あらゆる弁解の機会を奪ってはならないからだ。
さて、キョウコが不正の事実を頑として認めようとしない場合、怨まれる場合も受け入れて対応せねばならないだろう。
こんな時、『バナナはおやつに告発』を選んでしまったミホにはどんな手が残されているだろうか?
すべての人を傷つけないように語ることはできない。いや、できるかもしれない。しかし、そのときは真実を語ることを放棄しなければならない。
『〈対話〉のない社会』より
回りくどい配慮を覚えさせるよりも、始めから傷つき傷つける覚悟で対話すること、対話の技術を磨くようを勧めるほうが良い、道徳的だと思う(日本社会に合うか分からないが)。
上手くいかなかったとき、深く傷つくのは大抵が馬鹿正直な人間であり、不利益を被るのは後々の人だから。
【3、前項2と同じ論理。ただし、ミホとキョウコが親密な友人関係である場合】
すなわち、『バナナはおやつに入りますか?』が親友からの苦言であるならば、被告人は無視し難い。
ミホ、キョウコ、両名とも煩悶し、築き上げてきた友情関係に向き合わざるを得ないだろう。この話において、道徳はそこに見出せるのではないか。
……泣いて馬謖を斬る。着地点を見据えた質疑を図るのは本当の親友、仲間の役目。そう、考えるのが道徳ではないか?
●現実の道徳問題(2018年、6月時点)
……非現実的、穿ち過ぎた考えだろうか?
丁度タイミング良く(?)、フリーライターの武田砂鉄氏がラジオで取り上げた件を紹介したい。誤解の無いよう、全体を引用して載せる。
【平成30年5月28日(月)、萩生田幹事長代行記者会見】
時事通信社からの質問
『今日の衆参の集中審議を受けて、代行としては全部見られては無いと思いますが、印象としてこの森友・加計問題について説明は政府側として尽くしているという風に見ておられるか。現状の審議の状況をどのように受け止めておられますか?』
萩生田幹事長の解答
『全ての委員会を見ていたわけでは無いので分かりませんけれども、同じ質問の繰り返し同じ答弁の繰り返しが続いているような印象を受けました。何かを答えても、なかなかそれを了としないところの繰り返しがなされているんじゃないかなという印象を受けましたので、なかなか着地点と言いますか、最終形が分かり難いところがあるのかなと思います』
『その質問では、不利益を被る選択肢しか選べないではないか。お前らがちゃんと、責任者が傷つくことないよう注意を払った、思いやりを込めた(予め、逃げ道を用意した)質問をしないから、いつまで経っても回答ができないんだ』という逆ギレではないか。
優しい『バナナはおやつに告発』を要求しているようにしか受け取れない。
被害者・告発者へ加害者・違反者が思いやりを要求するという完全な筋違い、甘えだ。
思慮深さを求めているつもりでの発言かもしれないが、それは甘やかしを求めているに過ぎない。「何もかもが劣化しているんじゃないか」という武田氏の感想に、一切疑義をを挿めないと思う。
現実、下手な質疑はある。しかし、それ以上に不誠実な答弁はどう説明するのか。
道徳に政治批判を持ち込むべきではない?では、道徳は政治家の資質に不要なのか?『清濁併せ呑む』とは、道徳の軽視ではなく、むしろ重視しつつも冷静に損得と秤にかけることではないか。
子供らの目は節穴ではない。道徳の教科化を決めた人々の挙動を見ていないはずはない。
……白けていた目で見られたくないなら、先ず我々、大人自身の道徳を考えねばならないのではないか?
参考文献
『私の嫌いな10の言葉』中島義道
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