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2020年1月の記事一覧
編集教室、まさかの質問。
おとといの夜、ディスカヴァー編集教室での出来事。
およそ90分の講義も無事に終了し、質疑応答の時間に入る。「さきほどおっしゃっていた、取材の話なんですけど……」と、講義内容を受けたうえで追加の質問をされる方。「わたしは書籍編集の仕事をしているのですが、ライターさんが上げてきた原稿が○○だった場合……」と、具体的な仕事の悩みを相談される方。質疑応答の時間はこちらの瞬発力が試されるぶん、ある意味いち
借金はないけど、首が回らない。
あさ、ベッドから身を起こすことがかなわなかった。
身を起こすどころか、寝返りを打つことさえかなわない。40代も後半に突入した人生において、過去に経験したことがないほどモーレツに、首を寝違えたのである。少しでも首に力を入れると激痛が走る。なので、両手で(ちょうど腹筋運動をする人のように)後頭部を支え、首の筋肉をまったく使わない状態にして身をよじる。よじっただけではベッドから出られない。そのまま首を
ポテトサラダをつくらなきゃ。
これは謙遜とか卑下とかではなく、厳然たる事実として。
最近、自分の書く note がおもしろくないなあ、と思っている。書くことがおもしろくないのではなく、書かれたものがおもしろくない。明るさがないというか、書き終えたときの「よしっ!」という実感がないまま公開ボタンを押している。
理由はわりと明確で、考えている量が少ないからだ。日常のなかでの考える時間が、わかりやすく減っている。じゃあ、毎日なに
きのうのタクシーで考えたこと。
遅くまで仕事をした昨夜、タクシーで帰宅した。
タクシーの運転手さんとはもともと、運転のプロであり、道路情報のプロであるはずだ。目的地を告げると、渋滞情報などを勘案しながら、ときに地域猫ばりの裏道を使って最短距離で乗客を送り届ける。「5時までに武道館に着きたいんですけど、間に合いますか」みたいなリクエストに対しても、道路交通法のギリギリまで攻めながら乗客の希望をかなえようとする。そういう運転と道順
はじまりのことばについて。
『嫌われる勇気』の講演会ツアー、きのうは京都だった。
ぼくは福岡の出身である。そして福岡県の中学や高校はだいたい、修学旅行で奈良・京都を訪れる。うちの兄もそうだったし、従兄弟の兄ちゃんや姉ちゃんもそうだった。聞いたおぼえはないけれど、両親だって奈良・京都だったんじゃないかと思う。
ところがぼくの通った中学と高校は、なぜかどちらも奈良・京都を選ばなかった。生徒の自主性にまかせるとかなんとかの理由
モノマネを入口にして。
知ってるようでいて、じつは知らない。
思えばぼくの知識の大半は、それで形成されているような気がする。たとえば先日訃報の届いた宍戸錠さん。エースのジョーと呼ばれた男。立てた人差し指を、チッチッチッチ、と振るおじさん。たしかにぼくは知っている。いくつかのテレビドラマでその演技を見ていたし、食いしん坊万歳のレポーターをやられたり、ワイドショーのコメンテーターもたしか、やられていたはずだ。けれどもぼくは
そうあることと、そうなること。
もともとぼくは、体育会系の文化に染まって生きてきた人間である。
体育会系の人間を「先輩からかわいがられるヤツ」と「後輩から慕われるヤツ」のふたつに分けるとするなら、ぼくは断然前者だった。先輩からかわいがられるタイプだった。血縁的な事実として次男であるぼくは、弟キャラとして男子校の体育会を生き抜き、孤立無援な20代のフリーランス時代を生き抜いてきた。腰を低くし、「まじっすか!」「やばいっすね!」「
40年ですよ、40年。
あれは金曜日だったか、土曜日のことだったか。
ともあれ深夜の2時ごろ、自宅リビングのソファで犬を撫でながら、テレビのリモコンをいじっていた。そういう曜日、そして時間帯だったのだろう。各局ともアイドル番組ばかりを放映し、なかなかチャンネルがひとところに落ち着かない。こういうときには Netflix。アプリを立ち上げ、なにかちょうどいい番組はないかと探すのだけれど、さすがに疲れきった週末の深夜帯。こ
トーク、トーク、トーク!
きのうはひさしぶりに、トークイベントに参加させていただいた。
ひさしぶり、とは『嫌われる勇気』関連の講演会・トークイベントという意味だ。意外に思われるかもしれないが、ぼくはこの本をテーマにした日本国内での講演会に、おそらく5回も出席していない。登壇することがあるとすれば共著者・岸見一郎先生と一緒の席だけで、ぼく個人に「アドラーの話をしてください」とか「嫌われる勇気の話をしてください」といったお誘
センスがいいってなんだろう。
センス、について考える。
「あの人、センスいいよね」「いいセンスしてるなー」みたいなことをぼくらは、毎日のように思ったり、言い合ったりしている。ファッションだけの話ではなく、聴いてる音楽のセンスがいいとか、好きな芸人さんのセンスがいいとか、飲食店選びのセンスみたいなものだって、きっとあるだろう。いずれにせよぼくらは、いろんな人のおこないや振る舞いについて、そこにセンスの善し悪しを感じている。
ことばのいらない犬たちに。
こいつがことばを喋ってくれたらな。
動物と一緒に暮らす人間だったなら、一度はどこかで考えたことがある話だと思う。ほんとうはなにを考えているんだろう。ぼくの思いはどれくらい通じているのだろう。いま、なにをしたいのだろう。どんな気持ちで、きょういう日を生きているのだろう。訊いてもべつに、答えちゃくれない。ああ、1分でもいい、たったのひと言でもいいから、こいつがことばを喋ってくれたらな。何度も何度もそ
そんなプラカードは掲げないけれど。
きのう、書こうとしたのに書けなかった話がある。
『20歳の自分に受けさせたい文章講義』という本ができる過程というか、その前提にあった話だ。きのうも書いたとおり、あの本は柿内芳文氏が星海社新書のウェブサイト内で、ぼくへの(文章術に関する)インタビュー記事を掲載しようとしたことに端を発する。
さて、ここでひとつ疑問が浮かび上がる。
当時のぼくは、まったくもって無名のライターだった。『嫌われる勇気